たった一つ、変わらない存在。 09 言葉一つ隠して 「……?」 長い睫が震えてゆっくりと閉じられていた瞳が開く。前髪の隙間から覗くその瞳が私をとらえるまでに早々時間はかからなかった。まだ寝ぼけているのか揺れながら見つめる瞳はゆっくりと光を取り戻していく。それを目の当たりにしながら髪に触れていた腕をそっと下ろした。拒絶されるのが怖い。寝起きはいつにも増して態度が言葉に、顔に、そのまま表れる。そしてそれは何よりも真実を語る。だからそうなってしまう前に布団の中にしまいこんだ。 「オレ寝ちゃってた?」 「うん」 肌寒いのか近くに脱ぎ捨てられたブレザーを引っ掴み着込む。ぬくぬくと布団にもぐりこんでいる私は寒いと感じることはなかったけれど、頬に触れる空気はもしかしたら意外と冷たいのかもしれない。感覚が麻痺していてよく分からない。熱を帯びている頬ではそれは心地良いとしか思えなかった。でも思い返せばあの雨の中傘も差さずに私を探していた利央は私が考えている以上に雨に打たれていたのだろう。そして私をここに運ぶまでの間だってずっと。 「寒いなら暖房付けてもいいよ」 「平気だよ。それより気分は?」 「さっきと比べたらマシかな」 「大人しく寝てりゃいいのに。何で外になんて出たんだよ」 「だからご飯を買いにコンビニに」 「そんくらい誰かに頼めばいいだろォ!病人は大人しくしてろよ」 人が風邪を引いている時だと利央はいつも以上に強気だ。いつの間に持ってきたのか脇に置いていた救急箱から体温計を取り出して無言で差し出してきた。渋るように小さく首を振ってみたけれどずずっと目の前に持ってこられ仕方なく受け取って脇に挟んだ。その間に利央は私が買ってきたビニール袋を漁っていた。ぼんやりとそれを見つめる。買ってきた商品を一つ一つ取り出す度に機嫌が損なわれていく。利央を不機嫌にさせるようなモノを買った覚えはない。何に対して眉を寄せているのか分からず声をかけられずにいると全てチェックし終えた利央の瞳が私へと移った。 「なんで…」 「……利央?」 「なんでは全部自分で解決しようとすんだよ」 哀しみを湛えた声が脳の奥へと響く。鈍い痛みを伴っている頭の中はごちゃごちゃとしていて、その原因を探ることができない。どうすれば機嫌が直ってくれるのか、いつもの利央に戻ってくれるのか、考える余裕すら与えてくれない。泣き出してしまいそうな表情がが目に焼きつく。何でそんな顔をするの。 「なんで他の奴を頼んないんだよ!」 錘のようにずしりと落ちてくる。空気がふるえる。直後激しい頭痛に襲われたけれどそれよりも利央の言葉の方がずっと重たかった。 「なんで、オレを頼んないんだよ…」 頼りなさげに揺れる双眸が、それでも逸らされることなく私を見つめてくる。それは弱さと強さを同時に具えていて。言葉が思い浮かばない。どうすればいいのかも分からなかった。何を言えば正しくて、この状況を打破できるのかまるで予測できず声を閉ざしてしまう。今まで味わったことのない衝撃が全身を伝っていく。風邪で衰弱している身体には鞭のようだった。 私を揺さぶる声がどうしようもなく切なくて。冗談で終わらせることを許してはくれない。頼ってもいいんだよ。そう差し伸べられる手に縋ってしまいたくなるのに、開きかけた唇は言葉を紡ぐことは出来ない。身動き一つ出来ぬ緊迫した空気を壊したのは体温計の音だった。 「…………」 「…何度だった?」 取り出した体温計に落としていた視線をちらりと利央に向ける。素っ気無い態度から先ほどの言葉がまだ尾を引いているのが分かる。 「別に、普通」 「」 「……38度2分」 「それのどこが普通なんだよ」 吐き捨てるかのように呟くそれは利央じゃないみたい。苛々している。でもそれだけじゃなくて哀しみの翳りを残している。私から体温計を奪って元あった救急箱へと戻す。作られた空気が息苦しい。私の知らない人にならないで。そんな、虚しい願いはとうに潰えていてしまっている。ねぇ、だからこれ以上は遠くに行かないで。 あの雨の中の、意識が途切れる直前を思い出す。変わらない世界なんてつまらない。日々変わっていくものがあるから、努力をしたり息抜きをしてみたり、立ち止まって振り返ってみたりする。それはごくごく当たり前のことで、当たり前すぎてきっと誰も深く考えたりなんてしない。だってそれが世界だから。それが日常。でもね、思うんだ。常に変化する世界だからこそ、変わらないでそこに在りつづけて欲しいものもあるんだってこと。きっとそれはどうしようもなく辛くて逃げ出してしまいたくなった時、そこにあるだけで支えとなってくれる。 私にとってのそれが利央だなんて気付かなければ、こんな切ない痛みを背負うことはなかったのかな。 「もう大丈夫だから、帰っていいよ」 布団を頭まですっぽりかぶって壁の方へとくるっと向きを変えた。利央と言う存在を視界から消して全力で否定する。肉体的にも精神的にも弱まっている今は、逃げる手段しか思い浮かばない。不機嫌な利央を宥める方法も、うまく言いくるめる自信もない。不安定な神経は何かをきっかけにぷつんと切れてしまいそうなほど弱々しいのに。頼ってもいいなんて言われたら拒みたくてもその手をとってしまう。でもそれじゃダメなの。 「なに言ってんだよ」 「ほんとにもう平気だから。利央も帰らないとおばさんが心配するよ」 「…!」 「私もう寝るから、ね」 くぐもって聞こえる利央の声は震えているみたいで胸が苦しい。真っ暗な闇の中で傷ついた利央の顔だけがやけにリアルに映った。ぷつりと音が消える。しばらく息苦しい沈黙が流れた。布団を引っ掴んでぎゅっと握り締める。立ち上がる気配を感じたのは数分後だったのか数十秒後だったのか分からない。けれど確かに遠のく足音と部屋の扉が開く音が聞こえた。 「なぁ、にとって俺ってそんな頼りない?」 風が吹けばあっさりとどこかに飛ばされてしまいそうなほどか細い声は、それでもしっかり私に届いたけれど聞こえなかったふりをした。 << □ >> |