切なる願いは跡形もなく消え去って



08   堕ちる淡き願い



ゆっくりと瞼を持ち上げた。鈍い痛みが頭を襲い、寝起き早々に眉を顰めながら薄暗い室内を見渡した。どうも寝すぎてしまったらしい。壁にかかった時計の短針は七の数字をさしていた。起こそうとした体は重く、同時に肌寒さを感じて乱れていた布団をかき寄せた。寒いと脳が訴えかけているのに、身体は熱を持っていて触れた頬は予想以上に熱かった。熱が上がっている。そう予測するのには難しくない要素ばかりが揃っていて溜息をついた。

「…ご飯食べなきゃ」

幸いなのは食欲が僅かばかりでも残っていることだろうか。布団から抜け出せば床には脱ぎ捨てた制服が無造作に放られていた。片付けようと思う気にはなれず放置して、同じく床に落ちていた鞄から財布を取り出した。冷蔵庫の中身が空っぽに近い。食べようにも何でもいいから買ってこなければならない。パーカーを着込んで部屋を出る。一番近いコンビニまでは五分程度だ。履き慣れたスニーカーに足を通し家を出た。

そっと地面に落ちて行く雫。サァサァと静かに降る雨が町を包んでいた。これは何の嫌がらせだろうか。本当なら大人しく寝ているべきところを無理して出てきたというのに。重い空気が身体に纏わり付いて気分を落としていく。仕方なく傘を取りに戻った。




必要なものだけ買って家に向かう途中、前方から誰かが走ってくる音を捉えてゆっくりと顔をあげた。直感と呼ぶべきものがまだ遠くに位置するその人が誰かを確信する。傘も差さずに制服姿で必死な形相で走るその人が利央なのだと確認した時、向こうも私に気付いたのだろう荒く息継ぎをするその口は怒鳴るように私の名前を紡いだ。

ッ!!」

鋭い声が頭に響く。怒っている。その対象であるにも関わらず呑気にもそんな風に考えた。利央がここまで怒ることは珍しい。何をそんなに怒っているのかが分からず、自分を睨みつける利央を見つめ返した。

「利央?どうしたの」
「どうしたの、じゃないし!何してんだよ!」
「なにって、コンビニに行ってきたんだけど」
「風邪引いたから早退したんじゃん!だったら寝てなきゃダメだろォ!」
「でも…」

雨で濡れている手が乱暴に私の額にあてられた。ひやりとした感触にびくりと肩が揺れる。

「ほら、やっぱ熱あんじゃんか」
「そうだけど…」
「言い訳はいいから帰るぞ」

私の言葉を遮る声は様々な感情を孕んでいるようで、いつもなら言い返す私も大人しく口を噤んだ。もともと言い返す元気もない。利央はそれを知っているのだろう。私の手から無言でビニール袋を奪い取る。視線が袋の中身を確認して、何か言いたげに私を一瞥した。けれど言葉にすることはなくあいてしまった私の左手を掴んで歩き出す。
私を引っ張る形でどんどん突き進んでいく利央はその間にも雨に打たれる。このままじゃ利央だって風邪を引いてしまう。そういうところに無頓着なのは今も昔も変わらない。これで私の調子が普段通りなら逆に私がその腕を引っ張って傘の下へと引き寄せるけれど、生憎と今の私にはその余力は残されていなかった。どんどん進んでいく利央についていくだけで精一杯だ。熱が上がってきているのか意識が朦朧としてきている。覚束ない足は時折もつれそうになったりもするけれど、その度に気付いた利央がちょっとだけ速度を緩めてくれる。
その小さくてさり気ない優しさがちくちくと突き刺さる。欲しかったモノ、守りたかったものは掌から綺麗に滑り落ちていく。新たに手に入れたのは持て余してしまうほどのもどかしさと甘い切なさだ。こんなもの、要らない。胸を締め付ける苦しさに、感情が弾けた。





幼い頃の夢を見るのはその頃に戻りたいと強く願っているからなのだろうか。振り返れば幼い利央が何か訴えかけるような眼差しで私を見据えている。淀みのない、真っ直ぐで綺麗な澄んだ瞳。その瞳にじわりと涙が浮かぶたびを手の差し伸べてきた。迷うことなく握り返されることに嬉しさを覚えて、それでついつい調子に乗ってしまっていたのは確かだ。偉ぶって自分が居なきゃ何も出来ないんだから、なんて口にしたこともまだ覚えている。そんな踏ん反り返った態度を見せても離れていかなかった利央に対して抱いた感情はきっと今の私の想いに繋がっていくのだろう。その根源が打ち砕かれて、心が悲鳴をあげる。祈りにも似た懇願は届くことなく深い闇へと堕ちていく。


気付いたときには自分のベッドだった。眩しい光が目を刺激して思わず腕で遮る。ひんやりとした感触を額から感じてそのまま触れれば、風邪には定番ともいえる冷えピタが貼られていた。そう言えばどうしたんだっけ?雨の中、引っ張られるようにして帰っていた途中からの記憶が抜け落ちている。まさかあんな道端で、しかも雨も降っている中で倒れでもしたのだろうか。考えたくはない選択肢が一番初めに浮かび、しかしそれ以外を思いつくことはなく必然的に答えが示される。

「……利央」

小さく呟いた声にすぐ近くでピクリと反応を示すように何かが動いた。首を巡らせて横を向けば胡坐を掻いた態勢のままこっくりこっくりと船を漕いでいる利央がいた。雨で濡れたブレザーを脱ぎ、シャツの袖を捲くっている。首からかけられているタオルが湿っているのがここからでもよく分かる。座っているその横にコンビニで買ったものが入っているビニール袋が置かれていた。出かける前までは脱ぎ捨てられていた制服が気付けば不恰好ながらもハンガーにかけられている。慣れないながらも頑張ったのだろう。その様子が思い浮かび笑いが零れた。
時間は止まらないことを知っている。姿形あるものが変わっていくのと同時にそこに宿る感情も変化していくことを私は目の当たりにしてきた。それでも、たった一つだけ。

「………にも……か…いで……」

布団から出した腕を真っ直ぐ伸ばして、まだ湿っている髪に触れた。




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