それは胸の奥を締め付けて



06   愛しき花の蕾



ちゃん」

高らかなその声にどきりと心臓が飛び跳ねる。弄っていた携帯から顔を上げれば僅かに息を切らしながらも微笑む箱崎先輩がいた。上級生の登場に一瞬クラスがざわついたがすぐに落ち着いていく。注目されることが好きじゃないのか箱崎先輩も少し居心地悪そうにしながらも笑みは崩さず私の前に立っている。

「あ、おはようございます」
「おはよ。ごめんねいきなり」
「いえ、でもどうして?」

何だか非現実でも見ているような感覚で先輩を眺める。呼吸を整えるように一度大きく深呼吸するのを見つめながら、朝練の帰りだろうなぁと考えた。野球部のマネージャーを務めている箱崎先輩は高瀬先輩と同じクラスのはずだった。初めて話した時、私は箱崎先輩ほど共感を持てる人はいないだろうと思った。先輩にいびられる(その先輩達曰く、可愛がっているらしいけど)利央にとっての部内での逃げ込み先は箱崎先輩で、彼女はいつも利央から愚痴を零されるらしい。そんな話で箱崎先輩とは盛り上がって親睦は一気に深まっていた。とは言ってもそれっきり、箱崎先輩とは話す機会もなかったので久しぶりに顔を合わせて驚いた。
私の言葉に箱崎先輩は肩に提げていた鞄から何か取り出した。困ったような笑みを見せながら差し出されたモノを見て眼を見開いた。昨日の昼休みに利央に貸していた現代文の教科書だった。パチパチと瞬きを繰り返しながら箱崎先輩とその教科書を交互に見つめる。

「今部室散らかってて、それで紛れて持って帰っちゃったみたいなの」
「そうだったんですか。それ利央に貸してたんですけど、学校に忘れてきたって」
「へぇ、そうなんだ。じゃあ利央には悪い事したかな」
「や、どのみち利央は忘れてたと思うんで」
「確かにそうかも」

教科書を受け取って机の中にしまい込みながら、顔を見合わせて笑った。

「教科書、わざわざありがとうございました」
「ううん。私こそごめんね」
「先輩は悪くないですよ!全部利央の所為ですから」

今頃利央は慌てているだろうか。昨日の夜、帰り際に必ず教科書を持ってくるようにとしつこく念を押しておいたからさすがに忘れてはいないはず。と言うことは今頃探し回っているかもしれない。その姿を思い浮かべると面白くて笑いがこみ上げてくる。ふと先輩を見上げると同じことを考えていたのか先輩もくすくすと堪えるようにして笑っていた。

「あれ、紗羽さん何でいるんすか?」

たった今朝練を終えて教室に来た真柴くんが逸早く気がついて私の席までやってくる。朝練をしていた生徒も徐々に教室に顔を出し始め、少しずつ教室内が騒がしくなる。

「迅、利央は?一緒じゃなかったの?」
「アイツはに借りてた教科書がないって叫びながら部室中探し回ってましたけど、」
「あらら、やっぱりね」
「どういうことっすか?」

砕けた敬語を口にしながらもその視線は私の方へと向けられた。どうやら始めは一緒に探してあげていたらしいけど時間も迫ってきたので置いてきたらしい。ここに箱崎先輩がいること、その先輩が私と親しげに話していることが不思議でしょうがないという様子だ。手短に経緯を話す。

「ハァ、そういうことだったんですか」
「そういうことなの。真柴くんも探すの手伝ってくれたみたいで、ごめんね」
「俺は別に・・・。でも利央本気で焦ってたっぽかったけど」
「あー、うん。そろそろ教えてあげた方がいいかな」

あと数分としないうちに予鈴もなる。鞄から携帯を取り出してアドレス帳から利央の名前を探し、発信ボタンを押した。一秒、二秒、三秒――耳を劈くような利央の声が響く。

「もしもし?どォしよう教科書が見つかんない!」
「利央――」
「探してんだけど見つからないんだって!」
「そのことなんだけど、」
「ごめん、ほんとごめん!代わりに俺の教科書上げるからさァ、許して!」
「話を聞きなさいよ!」

ポンポンと言い訳と謝罪の言葉を繰り返し続けて人の話を全く聞かない。怒りのボルテージが上がっていき気がつけば怒鳴るように声を荒げていた。真柴くんや箱崎先輩、それに近くの席に座っていた子たちの吃驚したような顔に身を竦ませる。ああ悪い癖が出てしまった。怒りに捉われると周囲のことなど忘れてしまう。いい加減直したい。電話先の利央が静かになった。

「教科書ならもうあるから」
「・・・・・・は?何で、どういうことォ!?」
「私が間違えて持って帰っちゃってたのよ」

身を乗り出して少し大きめの声で箱崎先輩が口を挟む。利央にも届いたみたいで返って来た声に驚きが含まれていた。

「紗羽サン?何でそこにいるんすか?てか持って帰ったって」
「そのまんまの意味。それで今さっき届けに来てくれたの」
「何だよそれぇ!俺すっげー探したってのに」
「とりあえずもうチャイム鳴るし、急いだ方がいいんじゃない?」

興奮したように騒ぎ出す前に先手を打って、それから一方的に電話を切った。後で色々うるさく言ってくることは予想できたけれどくすくすと笑う声がして、そちらに注意が引かれた。

「さすが、扱い方がサマになってる」
「・・・そうでしょうか」
「うん。尊敬しちゃうわ」

そう言って笑う先輩の表情を見ていると本気なのか冗談なのか分からなかった。けれど隣に立つ真柴くんは同意するように頷いてたから彼は本気で言ったのだと思ったのだろう。

「でも、」

そろそろ教室に戻らないと、と時計を気にしていた先輩がくるりと振り向いて首を傾げる。美人と称されるような容姿じゃないけれど温かい笑顔に親しみやすさを覚えるその性格に後輩から人気が集まるのは頷けてしまう。それは私や今隣に立つ真柴くん、野球部の一年生にしても例外じゃないのだ。

「先輩には負けますよ」

か細く、そっと呟いた言葉はチャイムの音に紛れて先輩には届かなかったけれど。




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