雑音だけが包み込む世界で。 05 不協和音が響く 静まり返ったリビングに付けていたテレビから笑い声が響いてくる。お笑い番組か何かだろうか。映像は私の位置からは見えず、途絶えることのなく音だけが届く。見る気もないのにテレビを付けるようになったのはいつからだっただろう。ガチャガチャと手元で鳴る音と水の流れる音も入り混じって内容なんてこれっぽっちも理解してないけれど音がするだけで酷く安心させられるのだ。食器を全て洗い終え、蛇口をキュっと捻った。タオルで手を拭いてキッチンからリビングへと移る。 備えられたソファに身を預けた。壁にかかった時計は八時をさしている。夕食を食べ終え、片付けを終えるといつもこれくらいの時間だ。一人っ子でおまけに両親は共働きでいつだって帰りは遅い。だから一般的な家事はいつの間にか一通りこなせるようになっていた。仕事が忙しいから、といつもその一言で済まされる。そんな両親に憤りを感じることもあるけれど結局のところ私も自由にさせてもらってるのだから文句を言えるような立場ではなかった。お金の面で不自由することもないし、門限が決まってるわけでもない、成績のことで口煩く言われたこともなかった。周囲からすればそれは願ってもない状態なんだろう。クラスメイトにその話をちらりとでも出せばいつも羨ましいと言われる。けれど本当にそうだろうか。 母とはたまに会話はする。週に一度は早めに帰宅してくれる。その時は一緒に食事をするし、それまでの分を埋め合わせるかのように色んな話をする。それは随分と昔の話であったり最近あった些細なことであったりするけれど、私にとってその時間はとても貴重だった。でも、父とはここ暫くまともに会話をした記憶がなかった。もともと頑固で無愛想な人だったから笑顔で語り合うなんてことはなかったけれど、それでも小さい頃は私が話をすればちゃんと聞いてくれていたのだ。けど今じゃ向き合って話すこともなくなっていた。 玄関のチャイムが鳴った。来訪を告げるそれに眉を顰める。こんな時間に訪れる知り合いなんてたかが知れている。思わず立ち上がったけれど、少し考えて座り直した。自分が思っている通りの相手なら何もせずとも勝手にお邪魔するに違いない。そうでなければその時改めて来訪者を出迎えればいいだけの話。玄関先の相手の存在を追い払って興味もなかったテレビ番組に眼を向けた。 それから間を置く暇もなく玄関の扉が開く音が聞こえた。私の予測は間違っていなかったことを確信した。リビングの戸を開けて入ってきた利央は部活帰りにそのまま寄ったのか重たそうな鞄をソファへと放り投げ自分も開いたスペースに座った。 「いらっしゃーい」 「疲れたァ。準サン容赦ないし!、何かない?」 「何かない?の前に教科書。終わったらすぐ返すって言ったのは何処の誰でしたっけ?」 真向かいでだらしなく座り込む利央にわざとらしく手を差し出す。あれだけ大袈裟に言った結果がこれなのだ。だから利央は信用できないのだといい加減気付けばいいのに。ウッと言葉を詰まらせる利央は自業自得だった。仕方なさそうにバッグの中をゴソゴソと探るのを一瞥しながら深い溜息を吐く。まぁ今日中に返しに来ただけよしとしよう。見つからないのか詰め込んであったものを取り出していく様子を見ながらもう少し時間がかかりそうだと判断して立ち上がった。キッチンへと向かって冷蔵庫を開ける。以前買っておいた炭酸飲料水を取り出し、棚から二つグラスを持ち出して注いだ。グラスを二つ手にしたままリビングへと戻れば利央はまだ教科書を探していた。 「まだ見つからないの?」 「あのさぁ・・・学校に忘れてきたっぽい」 「はぁ?!」 思わず持っていたグラスを落としそうになって、掌に力を込める。零したりする前にとテーブルにグラスを置いて、利央を睨みつける。私の大声にびくっと肩を竦めた利央はだけどヘラリと笑ってごめんと謝罪する。そこに罪悪感は混じっていたけれどもしょうがないと言わんばかりのその顔にはさすがに腹が立った。 「あんたねぇ・・・」 「ごめんってば!明日の朝ちゃんと持ってくって」 「そう言えば許されるって思ってるでしょ、利央は」 「え・・・じゃあ許してくんないワケ?」 きょとんした瞳は全く疑っていないようで思わず言葉を失う。甘やかしてきた結果がこれだろうか。何をしても結局のところ最後に折れるのは私で、今回のそれも同様に何を言われようとも最後には許してくれるのだと信じて疑っていない様子だった。何だか上手く利用されているみたいでそんな自分がバカらしく思えてくる。それよりも利央の言うことに否定が出来ないのが悔しかった。 「?」 「・・・もういい。明日の朝、絶対だからね」 ハァと溜息をついてソファに深く座る。自分が注いで持ってきたグラスの一つを手にして一気に飲み干した。友人の言った通りなのかもしれないと昼間の彼女の一言が過ぎる。今回みたいなことが利央には当然のように受け入れられている。嬉しいような悲しいような、どちらにしてもこれではこの先も私達は平行線を辿ったままということだ。 別に特別なことを望んでいるわけじゃない。そりゃ向こうも同じように思っていてくれればどれだけ幸せだろうかと考えることもあるけれど、そんな淡く儚い願いは本人を目の前にするとあり得ないだろうと確信を得てしまう。 「それよりさぁ、おばさんたちは?」 私が持ってきたグラスに手を伸ばしつつ辺りをきょろきょろ見渡す利央のセリフは今更と言ったようなものだった。用事が終わったにも関わらず帰る気を見せずこの場に留まっては「腹減ったァ」などと情けない声を出す。だったら帰ればいいのにとも思うけれどまた一人きりになるのかと思うともう少しだけ居て欲しい気持ちが勝って口は挟まなかった。 「仕事だけど」 「は?おばさんも?」 「共働きなの利央知ってるじゃん」 「そうだけど、こないだ寄った時は居たじゃん」 「あの日は特別帰るのが早かっただけ。あと一時間くらいしないと帰ってこないよ」 父が帰ってくる時間はいつもバラバラだし、母は九時前後が目安だった。すっかり利央には話してあったとばかり思い込んでいた。 「それじゃそれまで一人?」 「・・・そうだけど」 「じゃあ何で鍵かけとかないんだよ!」 「え?」 こちらに詰め寄らんばかりに利央が身を乗り出す。 「え、じゃなくて!危ないだろぉ!」 「でもこの辺治安いいし」 「そんなの関係ないし」 「夏休みの間だってずっと鍵かけてなかったし」 説教を始める利央に実はたまたまかけ忘れていただけなんてとてもじゃないけれど言えなかった。夜遅くまで家で一人きりになる娘を心配してなのか母が利央のおばさんに何かあったときのために合鍵を渡してあることを知っていたから、てっきりその鍵を使って利央はここに来たのだとばかり思っていた。だから内心で鍵をかけ忘れてしまったことに酷く驚いていた。 「絶ッ対、次から鍵かけろよ!」 「はいはい。分かりました」 「!」 「分かったから、利央こそ明日ちゃんと教科書返しにきてよ」 利央に怒られているということが何となく癪で痛いところを突けば、渋い顔をしてそれから怒鳴るような声で返事が返って来た。 << □ >> |