」と私を呼ぶ声は昔から変わらない。



02   記憶と現の狭間



携帯の音色で眼が覚めた。目覚めたばかりの朦朧とした意識の中、眼を覚ます原因となった携帯を見つめる。鳴り響くそれは鼓膜から脳へと直接届く。酷く不愉快だと思った。ちらりと眼にした時計の針は眠りについてからまだ一時間しか経過していないことを知らせている。思っていたよりもずっと短い。人の昼寝の邪魔をするなんて一体誰だ、と携帯に手を伸ばしながらソファから身体を起こした。
文化祭の準備もなければ、出かける予定もなく、今日は久しぶりに家でゆっくり過ごそうと昨日から決めていた。新学期も目前に迫り、それは残りの夏休みがあと僅かだと言うこと。たまには一日家でまったりと過ごしても罰は当たらないと思う。大量に出された課題も夏休みが始まった当初からちまちまと進めていたおかげで全て終わらせていた。我ながらこういうところは計画的だと思う。
陽が射すと暑くて眠れないからと締め切ってしまっていたカーテンのおかげで室内はほどよく暗く、少し高めに設定しておいた冷房のおかげで眠るには最適の環境だったのに。受信ボックスを開き、受信者の名前を見たところで顔を顰めた。寝起きで只でさえ酷い顔をしていると言うのに更に酷くしてくれるなんて。「仲沢利央」と表されたその部分を選びメールを開いた。そこに書かれていたのはたった一言だった。

"今から行くから"

ちょっと待て、と携帯に向かって答えてしまいそうになる。こちらの了承も得ずに何勝手なこと言ってくれてるんだろうこの子は。段々と冴えてくる頭でとりあえず返信をしようとソファに座りなおしメールを打ち込む。するとそこでタイミングを謀ったかのようにチャイム音が鳴った。同時にガチャと扉が開く音が微かに聞こえる。玄関の方から「ー」と私を呼ぶ声も一緒になって。打ちかけだったメールを削除しつつ、メールするなら普通はもう少し早くにするものだろうと言っても無駄だろうことを心の中で突っ込みながら立ち上がって玄関へと向かった。


「うわ、ひっでぇ顔」
「・・・帰れ」

挨拶もなしの第一声でそんなコトを言う人を私は利央以外では知らない。大体女の子の顔を見てそんなことを平然と、しかも嘘偽りなく言える利央の神経をまず疑うべきじゃないだろうか。冗談だったらまだ許せる。でも今の利央の言葉は純粋に思ったことを口にしただけに違いない。
それは私達の間に何らかの隔たりや遠慮と言うモノが存在しないからかもしれないけれど、だからと言って許せるかといえばそんなわけがない。冷たく一言で突き帰す。メールが送られてきた瞬間からその意図を掴んでいたおかげで立場は私の方が優勢だ。今の利央には私と言う協力者が必用不可欠なはずだった。

「嘘だって!冗談だよ、冗談」

取って返したように態度ががらりと変わり、慌てて縋るような視線が向けられる。夏休みも終わりに近い日に限って、利央が私の家を訪れる理由なんてたった一つしか考えられない。追い返そうとしたところで無駄に終わることは経験からしっかりと学んでいる為に私の中からその選択肢は消えている。私よりもずっと背が高い癖にこちらを見つめる瞳はどこぞのわんこみたいで。ほんの数分前まで眠りを妨げられて苛々としていたのに、仕方ないな、なんて方向に向かってしまう。

「・・・とにかく上がれば?夏休みの課題でしょ、どうせ」

呟くようにそう告げて先にリビングへと戻る。それだけ利央は理解して勝手におじゃましまーすと私の後に続いた。昔から幾度となく遊びに来ているからわざわざ丁寧に出迎えることもない。




初めて会ったのは幼稚園に上がる少し前だったんだと思う。両親から聞かされた話をぼんやりとしか覚えていないから確かじゃないけれど、近所の公園に母に連れられて遊びに来た時だったらしい。初めて顔を合わせて喋った時、私は利央のことを女の子だと信じて疑っていなかったらしい。それは最近になって母が面白可笑しそうに話してくれたことで聞いたときは素直に驚いてしまった。確かに私の記憶に残る幼い頃の利央はふわふわの明るい髪の毛に瞳も存外大きく、背だって私よりも小さくてそれは可愛らしい男の子だった。

ゆるやかなウェーブのかかった髪にそっと手を伸ばせば思ってた以上にサラサラとしていて指の隙間を零れていく。そうして遊んでいると擽ったそうに身を捩じらせ、肩を揺らしながらくすぐったそうに笑う。女の子みたいな子だった。抱いた印象は男の子の癖に女の子よりも可愛い、だった。ドジでどこか抜けていて泣いているイメージが強い子。

母がよく言っていた。女の子の友達もいっぱい居たのにはいつも利央くんとばかり遊んでたんだから、と。時折懐かしそうに母が昔を懐古しながら話すのに耳を傾け私はそうだっただろうかと自分の記憶を辿る。そしていつも母の言う通りだったという答えに行き着く。
家がご近所だからと言う理由もあったんだろうけど、私は多分利央がお気に入りだったんだと思う。男の子なのに泣いているイメージの強かった利央を、女の子ながらも負けん気が強くて正義感ばかりが溢れていたあの頃の私は極自然と利央と一緒に居て守ってあげなくちゃ、という義務感に負われていたのかもしれない。

思いは変化する。私のその義務感は成長を重ねていくうちに形を変えて今も残っている。泣き虫ではなくなったけれど、どこか頼りなさげなままの幼馴染みを私はいつも突き放せずにはいられないままでいる。頼られて悪い気はしないのは姐御肌と言うべきなのか、それとも昔からの習慣で身に染み付いてしまっているからなのか、今日もまた同じ。

「全然分かんねぇ」
「問題も見ずに何言ってんの」

ぱたり、と机に突っ伏す利央と対面しながら視界に入る明るいふわふわとした髪に眼が行く。小さい頃から変わらないその明るい髪に思わず触れたい衝動に駆られ、腕が伸びる。思っている以上に柔らかいその髪を弄るのは昔から好きだった。だけどこの年になって無防備にそんな風に遊ぶことなんて出来るはずもなく――でもそれは意識よりも先に身体が動いていて。指の間から零れていく髪を見つめながら相変わらず良い髪質してるなぁと思っているとぱちりと利央と眼が合う。眉間の間に寄ったシワに気付き、スッと腕を引く。昔はそうやって触れてもただ笑っているだけだったのに、さすがに高校生にもなれば意味もなく触れられれば訝しむのは当然だろう。

「なんだよ」
「なんでもないよ。ほら、手動かす」

名残惜しさを感じつつ、意識を利央が睨めっこをしているテキストへと無理矢理向けた。




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