「ちゃん、ちょっといいかしら」 襖越しに聞こえた声は食堂のおばちゃんのものだった。伊助達がそろそろ来るだろうと思って茶菓を準備していたはその声に「はい!」と返事をしながら腰を浮かす。が開けに行くその前に、襖はあけられ、おばちゃんが顔を見せる。 「おばちゃん!どうかしましたか?」 まだ放課後に入ったばかりで陽も高く、夕食の準備まではたっぷりと時間がある。その時間帯に、おばちゃんがのところに顔を見せることは珍しい。不思議そうな顔のに、おばちゃんは困ったような顔で用件を述べた。 「ごめんねぇ、ちょっとちゃんに頼まれてほしいのよ」 「なんでしょうか?」 「調味料を切らしちゃってね、近くの町まで買いに行ってきてもらいたいの」 「え?」 予想外だった頼まれごとには驚くしかない。 「おばちゃん私は・・・」 「疑いも晴れたっていうし、学園の外に出たって問題はないわよ」 確かに、学園に無害だと判断はされたが、果たして勝手に外に出てもいいものだろうか。おばちゃんの様子からすれば、自分では行くことができないからこそ、に頼んでいるのだろうが、頷く権利はにはない。 「でも、」 「心配しなくとも学園長先生には許可をもらってるわよ」 「・・・え」 「あとはー・・・そうねぇ、一人はやっぱり不安だからお供はちゃんとつけなきゃね」 とんとんと話は進んでいく。を残して。しかし学園長の許可が下りているというのならば最早には何も言うことは出来ないのだろう。もとより、頼まれたのなら出来る限りそれに応えたいと思う気持ちはあるのだから、拒否するつもりはなかった。 「ここから一番近い町だし、下級生の子達でも大丈夫でしょう、きっと」 「はぁ」 お供をつけてくれなければどこにもいけないので、それは有難い。でも、出来れば自分のよく知る人がいいなぁっと思った言葉はただの我儘だったので飲み込んだ。 「はい、これお金」 おばちゃんはの両手を広げさせて、そのどちらにも小銭を持たせる。右手に乗った小銭の方が、数が多い。何故、二つに分けるのか。疑問を顔に出したままはおばちゃんを見上げた。 「左はお遣いの分。右はちゃんの給料の一部よ。それで好きなものを買ってらっしゃい」 お給料。そういえば貰っていなかった。貰えるとも思っていなかった。けれど、一応食堂の手伝い兼事務員という形で雇われたのだから、働いた分だけのお金は発生していたらしい。に渡されなかったのは、その必要がなかったからか。 「好きなものですか・・・」 「そう。女の子なんだから欲しいものはたくさんあるでしょう」 いつの時代、世界でも女の子は色々と物入りというもの。もちろんにもその言葉は当てはまる。しかしは、苦笑した。当てはまるけれど、ここでは例外なのだ。欲しいものといわれても、思い浮かぶものはない。ここで過ごすに当たっての必要なものは一通り取り揃えてもらった。だから、きっとこのお金はそのまま持って帰ってくることになるのだろう。そう考えていただったが、ふとあることを思い出す。 「ねぇおばちゃん、その町はお砂糖と牛乳はありますよね?」 「そりゃああると思うけど、お砂糖と牛乳くらいはここにもあるわよ」 「ううん。私が、個人的な事に使いたいから、自分で買いたいんです」 「そう。まぁお金はちゃんのものだから好きに使っておいで」 「はい、ありがとうございます」 お給料だといわれた、右手に乗る小銭を見つめる。そのうち、と告げた兵助たちへのお礼。それはまだ少し先のことになると思っていたけど、思っていたよりも早く出来そうだ。にしか出来ない、だからこそ出来るお礼。それは、この時代にはまだない、の世界でしか食べられない料理を彼らに振る舞うこと。レパートリーは少ないだが、この時代にある材料で作ることの出来る料理だってあることに気付いた。そうしたらもうこれ以上のお礼なんて思いつかなくなってしまった。折角町に出してもらえるのなら、これを逃す機会はない。 「それじゃあ着替えて待っててね」 「あ、はい」 それだけ告げておばちゃんは出て行く。 一人残ったは両手に乗った小銭を握り締めながら、準備をしなくちゃと振り返る。 「あ」 そこで、準備された茶菓に気付く。 そうだった、伊助達が来る予定だったんだ。 「・・・下級生でも大丈夫だって言ってたし、頼んでみようかな」 もともとと時間を過ごす予定だったのだから、空いてはいるだろう。案内役はやっぱり色々と自分の事を知ってくれている子がいいと思ってしまう。伊助と庄左ヱ門が来たら聞いてみよう。そう思いながら着替えるべく押入れの襖を開けた。 くのいち教室の山本シナ先生に頂いた私服用の着物に着替え、黒い制服を畳んで、自分の私服の隣に置く。それから、一度は床に置いた小銭に視線を落として、腕を組んだ。生憎と小銭を入れるような巾着を持ち合わせていない。そのまま持ち歩くのは落としてしまう可能性が高いので何かに入れたいと思うのだが、何がいいだろう。何か、なかったかな。自分の数少ない私物と与えられた物を次々に思い浮かべる。しかし、小銭を入れるような丁度いいものは思いつかず、頭を悩ませる。 ふと、視界に入ったのは、向こうの世界から持ち込んでしまった私物。 携帯電話と―――お財布。 「・・・・・・手に持って歩くわけじゃないし」 手を伸ばして、折り畳みの財布に触れる。久しぶりに触れたその重みを確かめながら口金をひらく。百円玉と十円玉、それから一円玉がいくつか入っている。それから入れっぱなしだったレシートを取り出せば、中に、お金以外の何かが入っているのに気付いた。取り出したそれを見て、は目を丸くする。まあるい、ビードロのような石。チェーンに繋がっているその石は乳白色で、見た目はさながら満ちたお月様のよう。 「これ、入れっぱなしだったんだ」 中学三年の冬、お正月に里帰りした時に祖母から貰ったものだった。高校受験のお守りだと言って渡されたそれをずっと財布の中に入れていたんだった。チェーンをつまんで、小さく左右に揺らしながらじっと見つめる。暫くそうしているとタッタッタッと足音が聞こえてくる。はそれを財布の中にしまい込む。 「さーん!失礼します」 襖の前で立ち止まったと同時に聞こえてきた声に、顔を綻ばせて返事をする。間違いようのない、伊助の声だ。襖が開かれて入ってきた伊助はいつもとは違う、私服姿だった。 「伊助君、その格好」 「食堂のおばちゃんに頼まれたんです。さんのお遣いのお供をしてくれって」 「おばちゃんが、そっか」 どうやらおばちゃんなりに配慮してくれたらしい。 内心でホッとしたのは言うまでもない。 「僕と庄左ヱ門と、それと団蔵も一緒です」 「団蔵君も?」 大歓迎ではあるが、でも珍しい。 「頼まれた時に一緒にいたんです。大丈夫ですか?」 を見上げる伊助の瞳は、少し心配げだ。その瞳が意図するところを正確に読み取ったは伊助のその頭を撫でてにっこりと笑う。 「平気だよ。一人じゃないし」 伊助も庄左ヱ門も、それに団蔵もいてくれれば恐ればかりを抱いていた学園の外だって怖くはない。 「そのための伊助君達なんでしょ?」 「はい!」 元気な返事が頼もしい。弟のような存在の彼らが実はとても頼りになる存在だとこうして心配されるたびに思う。 「準備できてるみたいですし、行きましょうか!」 「庄左ヱ門君と団蔵君は?」 「門のところで待ってます。僕はさんを呼びに来たんです」 「そうなんだ。じゃあ行こっか」 「はい」 小銭を財布へとしまいこんだは伊助に続いて部屋を出た。 BACK : TOP : NEXT 2009,11,04 |