寅の二刻、現代で言えば早朝五時。朝陽が上り始めて間もないその時刻には目を覚ます。目覚まし時計も、携帯のアラームすらも鳴らないこの世界で、気がつけば自然と同じ時間帯に目を覚ますようになっていた。あちらの世界に居た頃は目覚ましが鳴るまでぐっすり眠っていたはずなのに。こちら世界での、の朝は早い。朝陽が昇る時間帯には必ず目が覚める。
むくっと起き上がり、ずるずると床を這いつくばって部屋の隅っこまで移動する。寝間着が僅かに乱れてしまうが誰が見ているわけでもないので気にしない。そうして視界におさめるのはこちらの世界に持ち込んでしまった財布と電池切れで動かなくなってしまった携帯電話。それからこちらの世界に来た時に着ていた服。
帰りたい、という思いはの心に常に在る。帰れば、この身がどうなるのか想像もつかないがそれでも帰りたいとは願う。そこがが生きてきた世界だからだ。
暫くの間それらをじっと見つめていたがやがて諦めたように立ち上がって布団を片付け、着替えを始める。吹っ切りきれないのは、どうしようもないこと。それは認めてあげるべきだ。そうして考えれるようになっただけ進歩したのだと自分に言い聞かせる。
簡単に身だしなみを整えたはいつものように部屋を出た。


夢見が悪いのは相変わらずだ。こればかりは仕方の無い事だと思う。
でも以前までのように酷く魘されることはなくなった。
井戸水で顔を洗ったはその足でふらりと歩き出す。朝食の準備までにはまだたっぷりと時間はある。気分は早朝散歩だ。部屋でじっとしていてももう一度眠れるわけでもないし、することもないなら動いていた方がずっとましだ。
そうしてぷらぷらと歩いていると焔硝蔵がある方面から兵助が歩いてくる姿が目に入った。兵助は当然ながらよりも先にこちらに気付いていたのだろう。不思議そうなその顔は、の様子を窺うようにじっと見ている。
「兵助君、おはよう」
「おはようございます」
自主練の帰りなのか、それとも彼が来た方向からして委員会の関連で何かあったのか。それにしてもこんなにも朝早くから行動している兵助に感心する。のそれは、違う世界に来た事で眠りが浅く目が覚めてしまうのだ。違う環境がそうさせている。本来の環境であればこんな朝早くに、それも自然と目が覚めるなど絶対に有り得ない。
「自主練?相変わらず早いね」
「それはさんもでしょう」
山と山の合間から陽が昇り、穏やかな静けさの中に光が注がれる。
その眩さと強さに今日も日差しが厳しそうだと目を細めた。
「まだ眠れませんか?」
「ちゃんと寝てるよ。早く目が覚めちゃうだけ」
以前も兵助とこんな時間に会った。だから気になったのだろう。にこりと笑ってみせたにそれが取り繕ってはいないものだと分かった兵助は「そうですか」とその口元を緩めた。
「私、兵助君に心配かけてばっかりだね」
この学園に来てから、何度彼に頼って助けてもらったかしれない。伊助と共に一番最初に自分の存在を認めてくれた人。よりも二つ年が下だけど、それを感じさせないほど大人びた考え方と行動でを支えてくれていた。それに甘えてすっかり頼っていた。
「心配ですか・・・」
「うん。おまけに迷惑ばかりかけてる気がする」
「迷惑をかけられた覚えはないですよ。心配は、そうですね。さんは一人で溜め込むみたいですから」
にこやかに言われた言葉にはうっと返答に詰まる。
「否定できないでしょう」
「・・・そう、だけど」
自分の性格は分かっているつもりだ。だから兵助に言われた事が的を得ていることも分かっている。でも、こればかりは性格なのだからしょうがないじゃないか。性格なんてそう簡単に直せるものでもない。
「別に全てを話せなんて言いませんよ。ただ溜め込むだけでどうしようもないのなら話して欲しいってことです」
似たようなことを前にも言われたなと思い出す。
あの時は雷蔵達もいて、は全てを話して感情はぐちゃぐちゃだった。
「前にも言われたね」
「そうですね。それにさんは顔に出やすいので俺達も余計気になるんですよ」
「私そんなに分かりやすい?」
向こうの世界に居た頃のは少なくともそんなに悟られやすくはなかった。取り繕うことも笑顔を振りまくことも、どちらかと言えば得意だったはずだ。今がそうでないのは、忍を目指す彼らが人の感情の揺れに鋭いのか、それともが隠すことが下手になってしまったのか。多分、そのどちらもなのだろう。許容している範囲外の出来事ばかりを冷静に受け止めて何てことのない素振りが出来るほどの心は出来てはいない。
「はい」
素直に頷いた兵助に少しくらいフォローがあってもいいのに、と内心で思いながら、でも久々知兵助と言う人は落ち着いているのに、どこか天然な一面もあることを知ってきたは苦笑するしかなかった。

「あ、そうだ」
二人して食堂の方へと歩いていたがふとはあることを思い出して隣を見上げる。
身長は兵助の方が若干高かった。
「そのうちお礼させてね」
「お礼ですか?」
「うん。いつも助けてもらってるから」
感謝の言葉を述べるだけじゃ足りないほど、兵助達には頼ってきた。そして、きっとこれからもまた助けてもらうことはあるだろう。なるべく自分でどうにかしたいと思うが、どうしてもだけではどうにもならないことはあって、頼ってしまう時はやって来る。これから先、何度だっては彼らに礼を述べることになるのだろう。そのことを思えばやはり何かしたいと思うのは当然だった。
いつもいつも何かお礼がしたいと考えていただけれど、中々機会もなければ、何をすればお礼と呼べるほどのことが出来るのか思いつかない。この世界でが出来ることなんて限られている。ずっと頭を悩ませてきただったけれど、最近一つだけ思いついた。にしか出来ないこと。だからこそ出来ること。
「お礼なんて別にいいですよ」
兵助はそう言うだろうと思った。
きっと雷蔵や竹谷達に言っても同じ答えが返ってくるに違いない。
「私が、何かしないと気が済まないの」
「はぁ」
「だからそのときは、ちゃんと受け取ってね」
「・・・じゃあ、はい」
の意気込みに気圧されながらも兵助が頷く。
「うん。楽しみにしててね」
ようやく、僅かばかりでもお返しができると思えたはご機嫌だ。
弾むような足取りで食堂へと向かったのだった。



                                                                                
「庄左ヱ門!伊助!どこいくの?」
二人並んで歩く後ろ姿を団蔵は呼び止めた。
庄左ヱ門と伊助が同時にくるりと振り返る。待っていたのは嬉しそうな笑顔。
さんのところだよ」
にっこり笑って伊助が答える。
「また?」
「うん、そう。また」
学園がの存在を認め始めている。それは嬉しい事実であると同時に、伊助や庄左ヱ門にしてみると話す機会が以前よりも減ってしまった感は否めない。なので、二人にとって放課後、の部屋でのお茶会は貴重で大切だった。
「ふーん」
おそらく忍たま達の中でに一番懐いているのは1年は組だろう。伊助と庄左ヱ門が慕っているということが大きなきっかけとなり、今では姿を見かければ無邪気にへと寄っていく。暇そうにしていれば遊びに誘うし、こっそりと食堂に行けば内緒だよ?と言ってお茶と菓子を振舞ってくれることもある。好きにならないわけがなかった。団蔵ももちろん好いている。
「団蔵も来る?」
「え、いいの?」
「いいよね、伊助」
「うん。もちろん!」
団蔵には未だに引っ掛かっていることがある。初めてに会ったその日に、庄左ヱ門と交わした会話。忘れているわけではない。訳ありなのか、と聞いた団蔵に庄左ヱ門は僕からは何もいえないと返した。それは何かあると言っているも同然の返答。先ずは話してみなよ、とも庄左ヱ門は言った。話すだけでも見えてくることはあるからと。
でも、ちっとも見えてこない。話す機会は何度かあったけれど、庄左ヱ門の言う「見えてくること」なんて何もない。本当に話すだけで何か分かることなんてあるのだろうかと、最近になって思う団蔵だが、は組の頭脳でもある庄左ヱ門の言葉だ。それだけで信用に値はする。
「なぁ庄左ヱ門。前言ってたこと覚えてる?」
一歩前を歩く伊助からはるんるんと効果音が聞こえてきそうだ。
その背中を追いかけながら団蔵は庄左ヱ門に問いかける。
「前って団蔵が訳ありか、って聞いてきた時のこと?」
「そう、そのとき」
「覚えてるよ。どう?何か見えてきた?」
「・・・見えてこないから、聞こうと思ったんだよ」
何か感じることがあるのは当然とでも言った庄左ヱ門の様子に団蔵は肩を落とす。
まるで自分が鈍いのだと言われているみたいだ。
「まぁそんなもんだと思ってたよ」
「へっ?庄ちゃんそれってどういうこと?」
きょとんと目を丸くする団蔵に庄左ヱ門は首を横に振る。
知っている立場からの言葉だったと、今になって庄左ヱ門は思う。団蔵達と接している時のはいつも笑っている。そこに伊助や庄左ヱ門には僅かに零す本音や愁いの表情は微塵にも出しはしない。だから団蔵に何か感じ取れといっても無理なことだった。伊助や庄左ヱ門にすらこれ以上心配はかけられないと考えるだ。下級生の子達に悟らせるようなことはしたくないのだろう。にとって心の奥底に潜む本音を隠すのは上級生相手だと難しいが、下級生の、は組相手ならば何てことはないのだろう。
「庄ちゃーん?」
「・・・団蔵は、その訳ありを知って、どうしたいの?」
「どうって・・・」
難しいことを聞かれたかのように団蔵がぎゅっと眉を寄せて唸る。
けれどそれも数秒と経たぬうちに答えを導き出したのかパッと顔を上げた。
「そりゃ、どうにかできるなら助けてあげたいよ。庄左ヱ門だって言ってたじゃん、助けてあげてくれないかって」
「うん、言ったね」
ああやっぱり。団蔵がそう思うのだから、きっとは組の仲間達は皆同じように思ってくれるだろう。
たとえ何も知らなくても。
「だから後は団蔵次第なんだよ」
いくら団蔵でも、安易に教えることはできない。それをが望まないだろうから。だからやっぱり庄左ヱ門はそれ以上は団蔵にしてあげれることはない。団蔵が自分で勘付いてくれなければ。どちらかといえば鈍感な団蔵が果たして今の情報だけで答えに辿り着くかと言われると果てしなく難しい気がしたが、片足を突っ込んだような状態の団蔵を放ってもおけない。この訪問が少しでも良い方向に動いてくれればいいけど。そんなことを思いつつ庄左ヱ門は伊助の後を追った。




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2009,09,12


伊助が空気になっちゃった・・・!