空が、遠い。
見上げた空はやはり青く澄んでいた。がいた世界と比べればずっと綺麗だと思う。
快晴だったとしてもこんなにも澄んだ色はしていなかった。
「おやまぁ、さんだ」
落ちてしまった穴の中から遠のいた空を見上げていれば、ひょっこりと顔が現れる。
光が遮られ、顔が判別しにくい。けれど、ゆったりとした口調は独特で覚えがあるような気がした。
―――確か、
「四年生の・・・」
「綾部喜八郎です」
「綾部君」
四年生の綾部喜八郎。
記憶に染みこませるようにその名を小さく復唱する。
「なぜ」
「え?」
「なぜこんなところにいるのですか?」
こんなところ、とは穴の中をさしているのだろうか。それとも別のことなのか。
にはよく分からなかった。
「ここは上級生がよく通る場所です。だから仕掛けられる罠も分かりにくいものが多いんです」
ますます分からなくなりは怪訝な顔をする。
さんはこんなところを通らないでしょう?」
ああ、そういうこと。
じっと穴の中を見下ろす綾部の言いたいことがようやく分かった気がした。
と綾部が今いる場所は六年生の長屋近くの通路だ。この辺りを通ることが多いのはもちろん六年生、もしくはその隣に長屋がある五年生や四年生といった上級生達。がここに居ることがとても不自然に見えたのだろう。
「下手をするともっと酷い罠に引っ掛かりますよ」
つまり、この落とし穴なんて軽い方だと。大分深く掘られている所為で落ちたときに打ち付けたお尻が今でも痛いのだが、それくらいは浅い方だと言いたいのか。ここは一流の忍になるべく学ぶ場所だ。そう考えれば確かに落とし穴なんて軽い方なのかもしれない。
「この落とし穴は綾部君が掘ったの?」
そうなのだろう。何となくそんな気がした。
「落とし穴じゃありません、一人用の塹壕、タコ壺でーす」
答えにはなっていないが、わざわざ訂正したということはそういうことなんだろう。
「たこつぼ・・・」
「それでさんはどうしてここにいたんですか」
そして話は戻る。手を差し伸べてくれるわけでもなく同じ質問を繰り返した綾部にはどうしたものかと考える。答えなければ助けてもくれそうにない。こんな深い穴、一人で脱出できるわけもなく、助けは必須。
「人を、探してて」
もごもごとは言葉を濁す。
「・・・久々知先輩ですか?」
あがった名前にそうくるか、とは内心で唸った。
普通に考えればその答えに辿り着くことは当然だろう。を連れてきたのは兵助だと今や学園のほとんどの人間が知っている。そしてそれ故にが兵助や五年の彼らと親しいことも。上級生の長屋付近で人を探しているのだと答えてしまえばそれは必然と兵助か、または三郎や雷蔵、竹谷達の誰かと連想されてしまうのだ。
「えっと、」
けれど残念ながら探していた人は彼らではない。綾部が名を挙げた兵助でもない。違うのだが、否定するとまたややこしくなりそうでもあった。

「喜八郎、こんなところにいたのか」

どこからか声が聞こえた。
それまでずっと穴の中を覗いていた綾部がの視界から消える。
「立花先輩」
「今日は委員会だと言ってあっただろうに全くお前は・・・」
立花と言う名にの眉はぴくりと動く。
保健室で対峙したときの冷やかな瞳が思い浮かぶ。
「また落とし穴を掘っていたのか・・・ん?」
ぽっかり空いた穴を覗き込んだ仙蔵はそこに座り込むと目が合った。
さん、落ちたのか」
いつの間に名前呼びになったのか。それほど親しくなった覚えはない。が風で寝込んだその日以来、まともに話してなどいないのだから。

「・・・ありがとう」
仙蔵によって穴から脱出することが出来たはとりあえず、礼を述べた。ちなみに綾部はその間興味深そうにじっと見ているだけだった。
「いや・・・それにしてもこんなところをうろつくとは珍しいな」
「そ、それは・・・」
仙蔵の隣でどこを見ているのかよく分からない綾部をはちらりと窺った。
「ふむ、さん、これから暇だろう」
仙蔵は完璧と言えるほどの笑顔を見せる。うそ臭い。一度似たような笑顔を向けられたは内心でそう思った。そして暇だと言うことは決定事項らしい。
「はぁ」
「少しばかり付き合ってもらおう」
仙蔵の一言に反応してか、綾部の視線がをとらえる。
「付き合うって委員会に?」
「そうだ。実験台が欲しかったところだったのでな、丁度いい」
・・・実験台ってなに。
仙蔵は何処の委員会に所属していたかと考えてみたが、知るはずがない。先ほどの会話からして綾部も仙蔵と同じ委員会らしいが残念ながら綾部がどこの委員会なのかもは知らなかった。
「では行くぞ」
くるりと踵を返して颯爽と歩き出す仙蔵にもはや拒否権すらないのだと思いながらもはそれについていく。後ろには綾部と挟まれた気がしたは逃亡をはかろうなどとは思っていなかったが逃げ道を失った気分だった。



「あれ、さん?」
浦風藤内は仙蔵と綾部に挟まれて作法委員会が使用している部屋にやってきたを見て目を丸くした。藤内の隣に座っていた伝七も藤内の声に気付いて同じように驚いた顔をしている。
さん!どうしたんですか?」
兵太夫だけが驚きと喜びを一緒にしたような顔をしている。その兵太夫を見ては彼らが作法委員会だと知った。一年は組の面々がどの委員会に所属しているかだけはしっかりと覚えているのだ。
さんには実験台になってもらうんだよ兵太夫」
駆け寄ってきてくれた兵太夫の頭を苦笑しながら撫でるの横から聞こえてくる愉快そうな声。
「実験台って、今日は確か、」
「そう死化粧の練習だ」
高らかに宣言する仙蔵に藤内は若干頬を引き攣らせた。
普通ならば生首のフィギアに施すはずのそれ。
実験台と言うのだからその生首フィギアの役目をにやらせるつもりなのだろう。
「・・・しげしょう・・・?」
復唱するに説明などしていなかったらしい。それは少し不憫だと藤内は思う。
「一人ずつ順番にな。その間はフィギアで練習をしているといい」
委員長の言うことには誰も逆らえまい。元気よく返事をしたのは兵太夫で、伝七と二人でどちらが先にに化粧を施すかで言い合っている。腰を下ろし寛ぎながらそれを眺める仙蔵と、相変わらず読めない表情でじっと二人を見つめる綾部は仲裁に入る気はないらしい。まだどういった状況になっているのか理解できていないは目の前で言い合いをはじめてしまった二人の様子を見守るばかりだ。
「あの、さん、現状把握出来ていますか?」
「んーっと、浦風・・・藤内君?」
「そうです。三年は組の浦風藤内です」
「ごめん。分かってるような分かってないような微妙なところなんだけど」
そっと肩を叩けばそんな曖昧とした返事が返って来る。
「簡単に説明をすればさんの顔に化粧を施すだけなんです」
「うん。それで死化粧って言ったよね?それって死んだ人にするあれ?」
「はい、それです。作法委員会は戦に関する作法を学ぶのが活動内容なので」
「・・・いくさ」
重いひびき。
その言葉がこの世界では現実として今もどこかで行われているのだ。の世界とて日本は平和でこそあれ、どこかしらで小さな争いやいざこざは起こっていただろう。ただ、それはあまりにもには縁のない、遠い話となってしまっているので実感はわかなかった。でも、この世界は違う。この学園が安全なだけですぐ近くで戦が起こっていることもありうる。そんな、世界。
「藤内、説明はその辺りにしておけ。順番が決まったようだ」
「あ、はい」
見れば兵太夫が嬉しそうに勝ち誇った笑みを浮かべている。
当然その隣には心底悔しそうな伝七の姿があった。
「それじゃあさん、よろしくお願いしまーす」
「・・・お願いします。兵太夫君、丁寧にお願いね」
「もちろん、分かってますよ!」
化粧道具一式をの前に持ち運ぶ。
楽な姿勢で座り、よりも背が低い兵太夫の為に少し前屈みになる。その体勢のまま、仙蔵を見た。こちらをじっと観賞していたらしい仙蔵はと目が合うとそれは綺麗に笑った。でも、立花仙蔵と言う男の笑い方は信用ならないと思うは今回もやはりそうであり、眉間にしわが寄る。

その笑い方が、全てを見透かしているように見えた。




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2009,08,02