よく眠っている。あれから時間は刻々と過ぎて行き、気がつけば夕食の時間にまでなっていた。眠っているは起きる様子はない。あの一年は組やって来た騒がしい時でさえもピクリとも反応を示さなかったのだ。少し心配になって雷蔵が伊作にそのことを問えば、よほど深い眠りに就いているのだろうと言った。睡眠不足で眠れなかった分、体が眠ることを欲しているのだろうと語る伊作をさすがに六年間保健委員を務めてはいないと密かに思った。
夕食までとの約束だった為に伊助と庄左ヱ門はの様子を心配しながらも食堂へと向かった。伊作も雷蔵が此処に残ると進言した為に今は少しだけ席を外している。なので保健室に残っているのは雷蔵一人だった。
「雷蔵」
保健室の襖がスッと開かれ控えめな声と共にその人物が入ってくる。
「三郎。八と兵助も」
三郎と竹谷の後ろから盆を手にした兵助が続く。
「飯食ってないだろ。おばちゃんから握り飯作ってもらってきた」
「助かるよ、ありがとう」
「雷蔵じゃなくて伊作先輩が食堂に顔出した時は驚いたぞ」
「あはは。心配だったから僕が残るって自分で言ったんだ」
「そんなに悪いのか?」
覗き込んだ寝顔は熱の所為か仄かに赤い。しかしそこまで酷いとは思えず竹谷が訝しげに雷蔵に目で問うた。
「今は落ち着いてるよ。けど少し前までずっと魘されてたんだ」
そのときを思い出して眉を寄せる雷蔵に竹谷の視線は再びに向かう。やはり今の状況からは雷蔵の言うような様子は想像も出来ない。
「そうか。早く熱下がるといいな」
「・・・うん」
雷蔵と竹谷の会話のその横で兵助は黙っていた。今朝、井戸の前で出会ったその時に様子が何処か可笑しいとは思っていたのに結局気付かぬ振りをしてしまった。逃げるように去っていった背中がその話題には触れてほしくはないと言っているようで聞くことが出来なかった。しかし、こんなことになるのなら多少無理にでも問い詰めればよかったかもしれないと思う。風邪で倒れたことと、あの時が悩んでいたこととは直接関係はないだろうが、それでも原因の一端を担っているには違いない。
「兵助?どうかした?」
「いや、何でもない」
静かに兵助は首を横に振る。
「それより雷蔵、とっとと飯食えよ。せっかく作りたてなのに冷めるぞ」
兵助から受け取った盆を三郎が雷蔵へと押し付ける。その盆の上にある握り飯からは微かに湯気が上がっていて、本当に作ってすぐに持ってきてくれたのが分かった。冷めないうちにと持ってきてくれた彼らの行為を無碍にするわけにもいかない。雷蔵は握り飯を一つ手にした。






眠りについたとき、見るのは決まっていつも同じ夢だった。

横断歩道の向こう側に見えるコンビニ。 歩道の信号がチカチカと光り青色に変わる瞬間。 中ほどまで来たところで吹いた風。ぞくりと駆け上がる悪寒。 振り返れば眩しい光と一緒に視界に飛び込む車体。 耳に響いたブレーキ音と、そして携帯越しに聞こえていた母の、声。

こちらに来るキッカケとなったあの日の出来事。受けた衝撃も痛みも感じない。それはあの時と同じ。それでも言い様のない恐怖に支配される。飛び跳ねるように目が覚めて、バクバクとうるさく鳴る心臓の音を聞きながら自分が生きていることを確認する。そう生きているのだ。もしもこちらの世界に飛ばされなかったら最悪死んでいたかもしれない。死は免れたとしても大怪我を負っていただろう。あの瞬間を思い出す度に怖くなる。
生きているという実感は正直に嬉しい。カタカタと震える掌を見つめながらそれは強く感じる。けれど、同時にそれは絶望の始まりでもあった。目が覚めるたびにの視線は自然と部屋の隅に行く。綺麗に畳まれた私服。高校に入ってから買ったお気に入りの財布と、飾りつけもされていないシンプルな携帯電話。直前まで母に繋がっていたそれ。
思い出してしまう。一人暮らしを始めたを心配する声。何かに遮られたように聞こえなくなった最後の一言。あの時、母は私になんて言っていたんだろう。携帯が目に入れば必ずそんなことを考えてしまう。それを知ることはもう出来ないのに。
元いた世界に戻れる方法など検討もつかない。戻れたとしても自身が無事だという確証がどこにもない。帰りたいと思って、その思いは募るのに帰ることすらも怖い。この世界から帰れば自分の命はないかもしれない。

眠れば夢を見てしまう。だから布団に入っても中々眠れない。けれど、仕事の疲れも溜まっているのか自然と瞼は落ちていく。眠りたいという心身の欲求には勝てずに。そうして同じ夢を見て、目が覚めてしまう。ずっと、それの繰り返し。
巨大な迷路に迷い込んでしまったように出口がどこにも見当たらない。見つけられない。でもこれだけは誰にも話せなかった。帰りたい、なんて思っていることを伝えることはどうしてもできない。こんな自分を助けてくれて、力になってくれて、受け入れてくれた彼らには。それはその優しさへの裏切りのような気がしたのだ。自身がたてた誓いへの裏切りでもあるような気がして、だから言えない。この問題だけは自分でどうにかしなければならないことだと思っていた。


持ち上がる瞼は重く、それでもゆっくりと暗闇だった世界に光を射す。映ったのは木目の天井。そのことに小さな落胆を覚えながらも、安心してしまうという可笑しな気持ちにはもう慣れてきた。その中でいつもと違ったのはあの日の夢を見なかったことだろうか。飛び跳ねるように起きることなく目が覚めることに新鮮さを覚えながらも気だるい感覚に違和感を持つ。何でだろうという小さな疑問は不意に視界に入ってきた四つ顔によって判明した。
「お、お目覚めだな」
三郎の声に目をパチパチとさせる。それからは思い出した。知らぬ間に保健室に運び込まれていた事を。気だるいのは単純に風邪の症状の一種だろう。
さん気分はどうですか?」
「・・・ん、・・・・・・よく分かんない、かな」
兵助の問いに曖昧に答える。熱があることさえ自覚がなかったには自分の事なのにそれがよく分からなかった。少し笑って答えるに竹谷の腕が伸ばされ、額に触れる。もう片方を自分の額にあて考えるように首を傾げる竹谷を見上げた。
「んー・・・まだちょっと熱いか?」
「何だよその曖昧な答えは」
「だって俺保健委員でもないから分かんねぇし」
呆れたように三郎が溜息をつく。
「もう少ししたら善法寺先輩が戻ってくるからその時診てもらえばいいよ」
その隣で雷蔵が苦笑した。雷蔵の声には竹谷からその視線を彼へと移した。それから己の掌を見る。眠る直前までずっと感じていた優しい温もり。
「雷蔵君」
「はい」
「ありがとう」
きょとんとする雷蔵にの口元は緩やかに弧を描く。
「夢を、見なかったの。・・・雷蔵君のおかげだよ」
の言っている意味を理解した雷蔵はほんの数刻前の自分の起こした行動を思い出して顔が赤くなる。隣でその雷蔵の様子を監察していた三郎はにやりと唇の端を持ち上げた。
「へぇ。雷蔵、一体さんに何をしてやったんだ?」
「べ、別に何もしてないよ!三郎、お前何でそんなに楽しそうなんだよ」
「だって気になるじゃないか。なぁ八?」
「ん?ああ、まぁ確かに」
三郎の悪乗りに便乗する竹谷に、雷蔵の困惑度は増す。
「さぁさぁさぁさぁ!吐け、雷蔵」
「だから何もしてないってば!」
「だったらさっきの動揺は何なんだろうなぁ」
「もういい加減にしてくれよ!」
うんざりだとその表情で物語る。
「お前が吐けば済む問題だぞ」
「あーもう!ただ眠るまで手を握ってあげてただけだよ!」
攻め寄る三郎に勢いあまって大声で答えてしまった。しん、とまるで水を打ったようになる室内で自分が口にしたことを振り返った雷蔵が項垂れるように肩を落とした。とにもかくにも恥ずかしかった。何でそんなことを大声で言わなければならないのか。
「何だそんなことか」
興味を欠いた三郎の声が雷蔵に冷たく突き刺さる。思わずきつい眼差しで隣の三郎を睨んだ。
「そんなことって聞きたがってたのは君じゃないか」
「お前が下手に隠そうとするから、もっと大それた事を仕出かしたのかと思ったんだよ」
「大それたことって・・・」
考えるような素振りを見せてから三郎は閃いたようにニヤリと笑った。その笑みからは良い予感が全くしない。そんな三郎の様子に兵助と竹谷は互いに顔を見合わせた。このままでは不味い気がする。
「そうだな、例えば添い寝とか」
「なっ・・・!」
雷蔵の顔が一気に赤くなる。そのまま口を開いたまま数秒固まった雷蔵は不意に顔を俯かせた。ああ、不味い。兵助と竹谷はほぼ同時にそう思った。これは普段は温厚な彼の怒りが沸点に達したに違いない。
「・・・三郎・・・・・・いい加減にしなよ?」
いつもの彼とは違う、幾分か低い声。
「待て雷蔵!気持ちは分かるが落ち着け!」
「そうだぞ!ここ保健室だし。さんもいるんだし、な!」
慌てたように兵助と竹谷が宥めにかかる。ちなみに三郎の為ではなく目覚めたばかりのの為である。普段から様々な悪戯の標的にされてきた二人に三郎を庇うつもりは一切ない。
「あ、・・・そうだね。ごめん」
落ち着きを取り戻した雷蔵が気まずそうにを見た。その前に三郎の一瞥するのも忘れずに。彼への怒りを忘れたわけではないのだ。後で覚えおけよ、と視線のみで伝える。
「すみませんでした」
「・・・ううん」
自分の真上で交わされていた会話を黙って聞いていたは静かに口元を緩ませていた。笑ってしまうと雷蔵に失礼かもしれないと思いつつも、込み上げてくる可笑しさは消えてはくれなかった。
目覚めた瞬間の絶望と安心の狭間を彷徨うようなあの感覚は今はどこにもない。忘れたわけではないけれど、彼らのこうしたやり取りがいつだってを助けてくれていた。

意を決しては布団から起き上がる。途中それに気付いた四人にまだ安静にしていろと戻されそうになったが今は譲るつもりはなかった。確かに体に残る気だるさからしてまだ熱はあるんだと分かる。でも、今じゃなきゃ駄目な気がした。
「・・・話があるの」
の声は酷く静かで重たい。雷蔵はがこれから話そうとしている内容をそのことで悟った。ずっとずっと聞いてみたくて、知りたかったことだ。本当ならまだ全快ではないを止めなければいけないのかもしれないが、止めたとしても彼女は引かないのだろう。
「信じられないかもしれないけど、聞いてほしい」
話すことは、怖い。それにこれは自分で解決しなければいけないと思っていた。――でも。は眠る直前に雷蔵が言ってくれた言葉を思い出す。一人じゃないと言ってくれた。その言葉が、握ってくれていた掌の温かさが全てを赦してくれているようで、ずっと胸に痞えていたものがするりと抜けていく感じだった。話すことが裏切りではない。そうじゃなくてその事実すらも受け止めて、その上でこの世界で生きていくと決意することこそが必要なことだと思えた。

だから、決めた。全てを話してみようと。




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2009,03,30