保健室を出たはとぼとぼと歩く。その周りには薄っすらと負のオーラが漂っている。ぐるぐると頭の中を回るのはついさっき六年生の面々に言われた言葉の数々。それは思っていた以上に衝撃的で、今になってずしりとこの身に重く圧し掛かってくる。 見知らぬ場所。見知らぬ人。 そんな世界に放り込まれ抱いたのは畏怖。 全てのものが惧れの対象で。 向けられる視線がの存在を拒絶しているようだった。 その時負った傷は思っていたよりもずっと深く、何かある度に疼く。だから目を背けてしまった。傷の深さを知ってしまったら立ち上がれないような気がして。ただそんな自分を心配してくれる存在がいることだけを救いとし縋っていた。 はじめは、慣れることに精一杯だった。が居た世界、その昔の時代を思わせるこの世界の生き方はにとっては初めてのことばかりで焦りと戸惑いの連続だった。教師達からは疑われている中で、必死にこの世界に慣れようと気ばかり張っていた気がする。そうやってこの世界で生きていこうとすることに必死で他の事など見ようともしなかった。 信じられるのは伊助や兵助達のみ。どこかでそうやって勝手に決め付けて他の人を拒否していた。疑惑の眼差し。敵視する瞳。一度真っ向から受けてしまったそれはの傷を深く抉った。だからこれ以上傷つかないようにと殻に閉じこもってしまったことは否定できなかった。 でも、それが忍たま達を余計に遠ざけてしまうなど思いもしなかった。いや、そこまで考えるだけの余裕がにはなかった。いつだって考えていたのは自分が傷つくことばかりで、それが嫌で他人のことを考えることすら出来なかった。 六年生はともかくとして、他の生徒達がを気にするように度々視線を送ってきたことを本当は知っていたのに。カウンターからその姿がちらりとでも垣間見たのか、おばちゃんに向かって「あの人が新しく入った人なんですね」と好意的な言葉すらも聞こえてきたのに。たまにすれ違う下級生の子が何か言いたそうに見上げてきてくれたのを分かっていたのに。全部知らんぷりしてしまった。自分が傷つきたくないからと言う、勝手で我侭な理由で。 笑いながら声をかけてあげれば、もしかしたら親しくなれていたのかもしれない。生徒皆がは組の子のように無邪気に寄ってきては声をかけてくれるような性格をしているわけじゃないのだから。あちらだってはじめてみる年上の女の人になんて声をかけ辛いだろう。そんなことに気付けないなんて。 ふらりふらりと歩いていればいつの間にか食堂まで戻ってきていた。夕食の準備まではまだ時間があるはず。入口から一番近くの長椅子に座り卓上に頭を押し付けた。頭の中がぐちゃぐちゃで整理がつかない。思うことがいっぱりありすぎる。どうしたらいい?そうやって何の気兼ねもなしに問いかけれる相手が誰もいないことに孤独感が押し寄せてきた。 違う。そんなことはない。 自分のその思考回路をゆるゆる否定する。 一人ではない。少なくともこんな自分を心配し気にかけてくれる人はいる。 でもだからこそこれは話すことができない。 馴染んでいるのだろうかと気にかけて頻繁に会いに来てくれるし、何かあればすぐに悟られてしまい平気かととても優しく救いの手を差し出してくれる。甘えて、縋ってしまう度に嬉しい反面そんな自分が嫌にもなる。只でさえ彼らには世話になり迷惑ばかりをかけているのにこれ以上何を望もうとしているのかと。だからこれくらいの事は自分でどうにかしようと決めたのに。 いつまで経っても何も解決できず、悩みの渦にはまっていくばかり。 頭が、痛い。ズキズキと鳴り響くそれは思考を鈍らせていった。 最初にを見つけたのはきり丸だった。図書室に向かう途中に通りかかった食堂にここ最近では見慣れた姿を見つけて思わず足を止めた。何してんだろ。それが最初に思った事だった。昼間の騒がしさが嘘のように静まりがらんとした食堂に一人ポツンと座っているなんて。休憩するにしても何だか変だ。 「さーん、何してんすかーこんなところで」 近寄って声をかける。しかし返事は返って来ず気になってその顔を覗きこんだ。 「・・・・・・寝て、る?」 卓上に突っ伏しているその体勢からでは少し長めの前髪が顔を遮ってしまって表情を窺うことは出来なかった。独り言を漏らしながらもう少しだけ顔を近づけてみる。そこできり丸は眉を顰めた。耳に届いた呼吸音が何だかおかしい。眠っている時のそれと比べると少し乱れているような気がするし、苦しそうにも聞こえる。手を伸ばし、顔を隠している前髪をそっと掬って横に払う。露になったその顔色の悪さに思わずぎょっとした。髪を払う時に触れた額が熱かったような気がしたきり丸は自身の手をの額にあてる。 熱い・・・ような気がする。 空いていたもう片方の手を自分の額に置き熱さを比べる。若干だがの額の方が熱を持っている気がする。これはもしかして、熱があるんじゃないんだろうか。額の熱さと顔色の悪さ、それに少し荒い呼吸を統合させるとそれしか答えが思い浮かばなくなる。 「さんっ!さん起きてください!!」 こんなところで寝ていたら熱が更に上がるだけだ。保健室に連れて行かないと!体格からして運ぶなど決して無理なきり丸はその肩を揺すってを起こそうとする。しかし、そこでふと我に返る。気分の悪い人間を無理矢理起こすのは正しいとは言えない。きり丸はそっと肩から手を離す。 「ちょっと待っててくださいよ。今誰か呼んできますから」 聞こえてはいないだろうが、に向けてそう告げると急いで食堂から飛び出した。 雷蔵がいなくなった室内でポカンときり丸は入口の方を見つめる。誰かを呼ばないと考えた時、一番最初に思いついたのは担任でもある半助だった。なので迷うことなくこの部屋に駆けてきたのだが雷蔵がいるとは思いもしなかった。 「きり丸」 「・・・土井先生。何で不破先輩がいたんすか?」 「お前を探してたんだそうだ」 伝蔵が横から口を挟む。 「きり丸、お前は今日当番なんだろう。図書室に行きなさい」 「えぇー!でもさんが!」 「彼女のことは雷蔵に任せておけば大丈夫だ」 「でもぉ!」 納得が行かないときり丸が半助に詰め寄る。 「自分の所為で委員会の仕事をサボらせたと分かったら彼女が傷つくだろう」 「うっ」 「心配なら仕事を終えてから来ればいい。分かったら行きなさい」 「・・・はーい」 渋々頷いたきり丸が部屋を出て行く。お互いに顔を見合わせて苦笑した二人は気配が遠ざかったのを確認してその顔を険しいものに変えた。 「環境の違いについていけなかったんでしょうか」 「彼女の話が本当ならそれもあるが…それだけではないだろう」 「と言いますと」 「監視していた先生方の話では睡眠時間が極端に短いらしい」 監視の目は常にを追っていた。はそれを知らない。気付いた様子が一切見られなかったこそ、彼女は無害だろうと判断したのだ。その監視の中で、特に気になったのがそれだった。夜は布団に入っても眠れず一刻ほど瞳を開けたままぼんやりと天井を見つめ、漸く眠りについたかと思えばまだ夜も明けないうちに魘されて目が覚める。毎日がそれの繰り返しだったと監視していた教師からの報告が届いている。 「それは・・・」 「眠れないのだろうな。六年生より歳は上といってもたかが一つ。彼女もまだ子供だ」 「知らない世界に来てぐっすり眠れるわけもない、ですか」 「それでいて仕事はきっちりこなしていたのだから、肉体的にも精神的にも疲労が溜まっていたに違いない」 「我々の彼女に対する態度も関わってるかもしれませんね」 「否定は出来んだろうなぁ」 が学園に来たあの日。庵で見た少女はその顔に明らかに怯えを浮かばせていた。分かってはいたが、それでも学園を、生徒達を思えば同情よりも優先せねばならないことがあった。何かあってからでは遅いのだ。半助も伝蔵もあの教師達の意見の言い合いを黙って見守っていた側ではあるが、彼女を信用していなかったことには変わりはない。 「だがこればかりは仕方ない。後は雷蔵達に任せるとしよう」 「そうですね。・・・伊助と庄左ヱ門には知らせますか?」 「知らせなかったら怒るだろうなぁ」 「はぁ・・・知らせてきます」 溜息一つ。そうして半助は立ち上がった。 「さん!」 駆けに駆けて辿り着いた食堂には卓上に頭を預けて眠る姿があった。そのまま傍まで駆け寄ってそっと様子を見る。きり丸の言うとおり眠ってはいるが苦しそうだ。触れた額は熱を持っていて熱い。雷蔵はを起こさないようにそっと抱き上げた。このままこの場に居ても悪化させるだけだ。彼女の負担にならないように気をつけながら保健室を目指した。 保健室を前にして両手が塞がっていることに気付いた雷蔵は行儀が悪いことを承知で足を引っ掛けて襖を開けた。 「失礼します」 「雷蔵・・・とさん!?」 委員会や鍛錬等と級友達が去っていった保健室で当番の為に一人残っていた伊作は雷蔵が抱えていた人物に驚きで目を見開いた。 「善法寺先輩、熱があるみたいなんです!」 「分かった。今布団敷くからそこに寝かせてもらえるかい」 部屋の隅に布団を敷き、雷蔵がそこにを寝かせた。ほんの数刻前に心配していたことが現実になってしまい、やはりあの時に引き止めて休ませるべきだったと悔やみながらその容態を診る。薄く開いた唇から漏れる息がとても苦しそうで自然と伊作の顔も厳しいものになる。伊作とは反対側の布団の脇では雷蔵が心配そうな顔で様子を見守っていた。 「先輩、さんは?」 「風邪だね。多分仕事の疲れが出たんだと思う。それと、睡眠不足も原因の一つだろうね」 額に濡れた手拭いを乗せながら伊作は未だ苦しそうな寝顔を見た。 「とりあえずはゆっくり寝かせてあげるのが一番かな」 「・・・そうですか」 伊作の言葉に安心できないのはその寝顔は穏やかなものではないからだ。熱が上がってきているのか薄っすら色付いた頬に寄せられた眉が寝苦しさを物語っている。 「一刻ほど前にね、保健室にやって来たんだ」 雷蔵はに落としていた視線を伊作へと移す。唐突なそれに目を瞬かせる。 伊作はじっとの様子を心配そうな顔で見つめたままだった。 「手が荒れているから薬を出したんだけど、丁度その時仙蔵ともんじ、こへに長次、留も居て運悪く彼女は掴まってしまってね」 ああ、なるほど。それだけで雷蔵は何となく伊作が言おうとしたことを察した。おそらくは、先ほど半助と伝蔵から学園長の思いつきの話を聞いて抱いた不安。それが正に的中してしまったんだろう。 「これを機に色々と聞き出そうってことになってしまったんだ」 伊作が静かに目を伏せる。 「私も気になっていたから皆に便乗してしまった。あまり顔色が良くないことに気付いていたのに」 「・・・先輩」 「保健委員失格だ」 肩を落とす伊作に、雷蔵は少し迷ってから声をかける。 「それで、聞き出せたんですか?」 顔を上げた伊作はゆるりを首を横に振る。 「いや、一日だけ時間を欲しいと言われたんだ」 「時間ですか?」 その一日と言う時間の意図が雷蔵には分からない。 怪訝な顔をする雷蔵に伊作は小さく笑みを浮かべる。 「話すのなら、自分を信じてくれた君や竹谷が先だと言っていたよ」 雷蔵の瞳が大きく見開かれる。 「ちゃんと謝って説明したい。だから少しだけ待ってくれって」 真ん丸の瞳でを見つめる。 ずっと、気になってはいた。でもそれは容易に踏み込んではいけない領域だと思って聞けなかった。事情を知っているだろう兵助も初めの時点で語らなかったのだから聞いても教えてはくれないだろう。三郎はいつの間にか知ったみたいだが、雷蔵には同じようにを問い質すようなことは出来なかった。かといって竹谷のように懐が深いわけでもない。彼女が話してくれるのを待とうと思っても、偶に沈んだ顔見かければどうしてなのかと聞いてしまいたくなる。思い切って聞くことをしなかったのは自分の迷い癖がプラスの方向に傾いただけ。一歩間違えればを傷つけてしまったかもしれない。それなのに。 「謝る必要なんてないのに・・・」 眠っている時でさえ、何かに怖れているようで。きっとが抱えているものは雷蔵が思っている以上に重たいのだろう。それを話さそうとしてくれていたことが嬉しくて、それなのにこんな中途半端な自分が申し訳なくて。三郎のように思い切ることも出来なければ、竹谷のようにそのままで受け入れることも出来ず。 「雷蔵、少し席を外すからその間彼女を看ていてくれるかい?」 雷蔵の呟きに気付かぬ振りをして伊作は立ち上がる。 項垂れるように顔を俯かせていた雷蔵は伊作を見上げた。 「食堂のおばちゃんに彼女のことを伝えてくるだけだからすぐに戻ってくるつもりだけど頼めるかな?」 「あ、・・・はい」 「じゃあ頼んだよ」 にっこりと微笑んで伊作は保健室を出て行った。 BACK : TOP : NEXT 2009,03,06 時間軸が前回の話の前と後に分かれてます。分かり難くてすみません。 |