朝陽が昇り始めた頃、はむくりと起き上がった。寝間着から昼間着用している黒い制服に袖を通す。ちらりと視界の端を掠めるこの世界に来たときが着ていた服は綺麗に畳まれて部屋の隅に電源の切れた携帯、それから財布と一緒に置かれている。こちらの世界に持ち込んでしまった数少ないの私物。あまりそれを見ないように素早く着替えを済ませ、手櫛で髪を整えてからそっと部屋を出た。 現代ならばまだ夢の中であるこの時間帯。それはこちらの世界に置いてもまた同様で生徒の大半がまだぐっすり眠っているだろう。くのたま長屋を足音を立てないよう慎重に進み、が向かった先は食堂から一番近場にある井戸。冷たい井戸水で顔を洗う。気を引き締めるにはひんやりとした井戸水は最適だった。 「さん」 呼ばれた声には驚いて振り返った。こんな時間に起きている人がいるとは思っていなかったからだ。忍術学園は自主トレをする生徒たちで夜更けまで騒がしいことは聞いていた。なので逆に朝はひっそりと静けさが漂っていることが多かった。 「あ、兵助君」 「おはようございます。早いですね」 「兵助君こそ。こんな時間にどうしたの?」 「まぁ、自主トレみたいなものです」 まだ強くはない陽射しを浴び、その額にきらりと光る汗の粒を見てはぁ、とは感嘆する。夜遅くまで鍛錬している生徒もいればこうして朝早くから活動する生徒もいるものなのか。忍の活動の基本は夜だとばかりイメージから想像していたには少し意外だった。 「夜はそれこそ大多数の生徒が自主トレしてるんで」 「それで朝に?」 「毎日って訳じゃありませんけどね」 夜目を効かせる為にも鍛錬などは夜に行った方が効果的ではある。なので兵助も基本は夜を選んで自主トレをするのだが、誰にも邪魔されず集中するには朝の方が向いていると思っている。夜は誰しもが自主トレや予習復習に励むので騒がしいし、誰かと鉢合わせする事などが多々あるのだ。 「そっか。熱心なんだね」 「・・・さん」 ここに兵助が現れたということは彼も同様に井戸に用があったのだろう。邪魔にならぬようにとその場から退き、挙句にはそのまま立ち去るつもりだったは兵助の一言にその場に縫い止められた。 「朝食の準備を始めるには早すぎる時間です」 季節は夏。日の出の時刻は早いこの時季にこんな朝早くに一体何をしているのか。にはそう聞こえた。兵助の言うとおり今食堂に向かったところで食堂のおばちゃんの姿はなく、ひょっとしたらまだ床に就いているだろう。下準備は夜のうちに済ませておくので朝食の準備にはそう時間はかからない。なので本来、朝は比較的ゆっくりと出来るのだ。 「何かありましたか?」 兵助の問いに首を振る。ここ数日は穏やかな毎日が続いていた。親しくなった一年は組の子たちが休み時間の度に顔を見せては色々な話を聞かせてくれるようになったのだ。彼らが聞かせてくれる話はどれも驚くようなことばかりで、そして面白い。それに伊助と庄左ヱ門は相変わらず二人揃って部屋にまで遊びに来てくれる。これといった問題は何も起こってはいない。 「ちょっと早く目が覚めちゃっただけ」 「本当ですか?」 「うん」 笑っている姿に違和感を覚える。それを兵助が見逃す筈がない。けれど吐露することもなく誤魔化そうとする態度を見れば話したくないのだろう。必死に取り繕う様子に兵助は気付かない振りをした。 「そうですか」 「あ、朝から頑張ってる兵助君には朝食サービスつけとくね」 「ありがとうございます」 それじゃあ、とは食堂の方へと歩き出す。下手をすれば口から零れてしまいそうな本音を飲み下す。ただでさえ世話になってばかりいるのに心配までかけられない。この世界に来てから迷惑ばかりかけているので何とかなりそうなことは自分で解決しようと心に決めた。何よりこれは自分自身の問題だ。他の誰かに頼るでもなく、の気持ち次第なのでそれは自分でどうにかするしかない。 逃げるように去る背中を兵助がじっと見つめていたことには気付かない。 「あらまぁ、荒れちゃってるわねぇ」 生徒達が去った後の食堂では食堂のおばちゃんに相談をもちかけた。それはここ数日頭を悩ませていた手荒れのことである。 両の掌をおばちゃんの広げてみせる。おばちゃんの眉が顰められたのを見ても苦笑いを浮かべる。 「これ以上酷くなる前にどうにかした方がいいと思いまして」 「そうねぇ、保健室に行ってみたらどうかしら」 「保健室ですか?」 「うん。保健委員会の善法寺君がね、手荒れのための薬をくれるわよ」 「・・・善法寺君」 聞き覚えのある名前だ。しかしそれが誰なのかには分からない。おばちゃんの様子から上級生だというのは何となく分かる。でも五年生ではないだろう。とすると四年生か六年生か。どちらにしてもとはあまり関わりのない学年だった。僅かにの表情が曇る。 「大丈夫よ。善法寺君はとっても良い子だから」 の不安に気付いたおばちゃんが安心させるように笑いかける。の事情を学園長から聞いているおばちゃんは自分から面識のない相手とは関わろうとしないことを見抜いていた。それはカウンター前に立つことなく常に厨房の中で動き回っている様子からしても分かる。 「保健室の場所は分かるかしら?」 「分かります」 「じゃあ行ってらっしゃい」 ポンと背中を押され、困ったように眉尻を下げながらは食堂を出た。 保健室に入ったことはないが、その前を通りかかったことがあるので覚えていた。重たい足を引き摺り保健室の前に辿り着く。ここに来るまでには善法寺という名の生徒のことを思い出した。善法寺伊作。六年生で保健委員会の委員長を務めいる生徒だ。 思い出したところでこのどんより重たい気持ちは何ら変わりない。それどころか酷くなったくらいだ。以前の三郎の忠告はの心に蟠りとして残っている。あの言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。 「失礼しまぁす・・・」 意を決してそうっと襖に手をかける。 そこでは室内が騒がしいことに気がついた。 「留も文次もいい加減にしなよ」 「全くだな」 「あっはっはっは!留三郎も文次郎も自業自得だな」 「なにぃ!?小平太お前だけには言われたくはないわっ!」 「そうだ!文次郎と一緒にするな!」 「何だと!!」 「煩い。少し黙らんか」 「二人ともここが保健室だっての忘れないでよ。それとこへも人の事言えないだろう。なにかやらかす度に怪我作ってきて」 「えー?そんなに怪我した覚えはないって!な、長次」 「・・・・・・・・・・・・・・・」 「え?後輩?」 「小平太の場合、被害を受けてるのは体育委員会の後輩なんだからね」 半分程空いた襖、その丁度真正面に座っている生徒が腕を組んで些か険しい顔でお説教をしている。深緑のその制服は最上級生の色。つまりは六年生。繰り広げられる会話に言葉もなく呆然と佇んでいれば、一人の生徒と目が合った。先ほどまで溜息と一緒に説教をしていた保健委員長の善法寺伊作である。 「おや?」 伊作の言葉にぐるりと円を作って座っていた生徒達の視線が一斉に向けられる。びくつき肩が飛び跳ねたは襖に顔半分を隠した。相手は仮にも年下だというのに情けない。 「確か最近事務員兼食堂の手伝いで雇われた…」 「、だろう」 「へぇ!この人がそうなのか」 「おい仙蔵。仮にも年上の人に呼び捨ては失礼だろ」 「ああ、そう言えば私達よりも一つ上だったか」 かちんと来たのは三郎にも年上には見えないと言われたばかりだからだ。 しかしそれを口に出す勇気などある筈もない。 「保健室に用があったんですよね?」 「・・・はい」 「どうぞ入ってきてください」 にっこり伊作に微笑まれ今更今日はやめておきます、などとは言えずおずおずと保健室に入る。つい今しがたまで円を作って座っていた六年生は伊作以外が隅っこへと移動していた。その場に残るつもりだったらしい小平太は長次によって引き摺られ文句を上げている。 微笑んだまま待ち構える伊作に座れと促されているようでは伊作の目の前に腰を下ろした。 「先ほどは失礼なことばかり言ってすみませんでした」 「いえ」 「さんですよね?私は保健委員長の善法寺伊作です。今日は新野先生は不在なのでどこか怪我をしたのなら変わりに診ますが」 なるほど。伊作以外の六年生は診察の邪魔にならぬようにと移動したらしい。じぃ、と感じる視線に居心地は最悪なのだがなるべく気にしないよう努める。 「この手荒れをどうにかしてほしくて」 伊作の前に手を差し出す。パッと見そこまで酷いものではない。 症状が出始めたばかりなのだろう。 「私・・・手が荒れることなんて今までなくて」 「これは・・・、今はまだ平気でしょうがこれからの季節になると辛いかもしれませんね」 「今の内に少しでも治せたらと思うんだけど」 「少し待っててください」 そう言って立ち上がった伊作は様々な薬を保管している棚に向かいそこから一つの薬を取り出す。 「この程度ならこれを塗っておけば大丈夫だと思います」 薬を塗られ、それから塗り薬を少しばかり分けてもらう。 「その薬を使い切ったらまた来てください。あと、これ以上酷くなった場合も。その時は暫くの間水仕事は控えてもらうことになると思います」 「分かりました」 「あと・・・・・・・・・、」 薬を塗り気持ち的にホッとしたは己の手に落としていた視線を上げる。 「何でしょう?」 「いえ、何でもないんです」 腑に落ちないながらもこの場から早々にも立ち去りたかったは腰を浮かそうとする。しかしまるでタイミングを謀ったかのように小平太が伊作のもとに来た。 「いさっくん、終わったー?」 「ああ小平太。今終わったとこだよ」 「よし、じゃあさんはこっちな!」 「へっ?・・・ぎゃっ!」 にんまり笑った小平太と目が合ったかと思えばいきなり名前を呼ばれ、そのまま腕を引っ張られた。 その余りの強さに奇声があがる。 「こら小平太!」 伊作の叱咤の声は綺麗に流され、は有無を言わさず連れていかれる。腰を下ろした先、そこに座る伊作を除いた六年生の面々にの顔は難しいものに変わる。の横にどっかりと胡坐を組んだ小平太は以前満面の笑みだ。 「あの、何か・・・?」 目が合ったのは丁度の目の前の位置に座していた仙蔵だ。 その切れ長の瞳に物怖じしながら尋ねる。 「なに、せっかくの機会だから新しく入った事務員と話そうと思ってな」 爽やかに微笑んで見せているが、には仙蔵の言葉はあまり信じられなかった。 BACK : TOP : NEXT 2009,02,12 六年生編に入ります。無駄に全員出してみるから苦労するんですよ(笑) |