その日はとても気持ちの良い天気だった。昼食の片付けが一息ついたところで休憩をもらったは食堂から一番近い木の根元に腰を下ろした。にとってこの木の下は休憩時の拠り所となっていた。昼の日差しが一番強い時間帯ではあったが生い茂る葉が光を遮り、柔らかな木洩れ日となって降り注ぐ。一息つくには絶好のスポットだった。
水仕事で少し荒れてきた掌を擦りながらどうしようかなぁと思う。ヒリヒリと感じるようになった痛みにさすがにこのまま放置したら大変なことになるかもしれないと危機感を持った。現在っ子のは肌荒れなどとはこれまでとんと無縁だったし、肌が乾燥する冬などはハンドクリームを偶にぬる程度で事足りていた。なのでまさか手が荒れるなどとは微塵にも思っていなかったのだ。今はまだそこまで酷いものではないので平気だが、これから悪化する可能性の方が高いに違いない。真冬だったら非常に深刻な事態になっていただろう。そっと手の甲を一撫でして持ち上げていた腕を下ろした。
後でおばちゃんにでも相談してみよう。こういった悩みは忍たまである伊助達よりは同じ水仕事をしている食堂のおばちゃんに聞いてみた方が確かな答えが貰えるだろう。

悩みが解決したところで息をつく。さわさわと揺れる枝葉の音が耳に優しく、遠くから聞こえる忍たま達の楽しそうな声にこの場だけが世情から離れされた場所にのように感じる。長閑ささえ感じるこの空気に和んでいればすぐ側の草むらの方からかさかさと音が聞こえた。
その音につられてそちらを見やる。やがて草の茂みから姿を現した相手を見てはピシリと固まった。
長い胴体を器用にくねくねとうねらせるそれはもよく知る生き物だ。けれど実物を見た事は片手で足りる程しかない。シュルシュルと言う効果音を背負っての方へと近づいてきたのはヘビであった。
温かい日差しに誘われて森から出てきてしまったのだろうか。その場から動けずにはじっとそのヘビを見つめた。長い舌をちらつかせながらから数歩離れた先で止まったヘビの視線もまたに向いているように見える。
本当ならすっ飛ぶようにして逃げ出したいのだが発見した時点での距離が近かった為に下手に動くことが出来なかった。
都会育ちのはヘビと遭遇するような機会は希少だった。記憶に残るのは幼い頃に連れられて行った動物園でガラス越しに見た姿と、田舎と呼ぶのが相応しい父方の実家に帰省し、山の中で遊んでいた時だ。あの時は本能で危険だと察知したのだろう。その姿を見た瞬間に悲鳴を上げながらも興味を示しそうだった弟の手を引き一目散に逃げた。
後にその事を祖父に話せばどうもあのヘビは無害だったらしくそんなに慌てて逃げる必要はないのだと豪快に笑っていた。その所為で弟には散々文句を言われた覚えがある。しかし無害だろうとヘビと言う生き物は危険だという認識があったには祖父にそう言われても納得は出来なかった。弟から悪態をつかれ、祖父にまで笑われて不機嫌になったを宥めたのは祖母だった。中には猛毒を持つヘビもいるから、見つけた時点で逃げたは正しかったのよ、と。
唐突に祖母のその言葉を思い出しながらも逃げるに逃げれないこの状態に冷や汗が流れる。あの日以降ヘビに遭遇するような事態に見舞われたことはないが、ヘビにあったら威嚇せずに速やかに逃げることが最適だと知識として蓄えられていた。
しかし、この状況はどうだろう。じっとこちらを見つめるヘビにはまるで隙がない。こちらの様子を窺うような視線に動く事自体が威嚇になってしまいかねない気がした。ヘビのクセにと内心で思った。言葉にしてしまえば何故だかは分からないがこのヘビには通じてしまうような気がしたからだ。
ヘビの種類など知るわけもないにはこのヘビが毒をもっているか、そうでないかも分からない。どちらにしても咬まれることだけは絶対に嫌だ。どうにかならないものだろうかとヘビと対峙したまま必死に打開策を探す。けれどこういった事態に陥ったことのないにそんな都合の良い策が思い浮かぶ筈もなく、ただただ時間ばかりが過ぎていく。


昼の休み時間を使ってかくれんぼをしようと言い出したのは誰だったか。皆が一斉に賛成したので忘れてしまったが、そうして始まったかくれんぼで隠れ場所を探して食堂の裏手までやって来た団蔵はそこに立つ一本の木の幹からはみ出る黒い忍装束に気付いた。
用がない限りは通ることは滅多にないこんな場所で一体誰が何をしているのかと気になったのは団蔵が一年は組の一員である証だろう。むくむくと沸き起こる好奇心を抑える術など知らず真っ直ぐにその樹木へと近寄っていく。あと数歩と言う所でその横顔が見えた。
さん?」
目を丸くした団蔵の声に実にゆったりとした動作で振り返ったはその姿に微かに安堵の息を漏らした。人が来てくれた事とそれが面識のある相手だったからだ。
「団蔵君」
「あのう、どうかしたんですか?」
ゆるゆると笑ったがどこか弱々しい笑顔に挨拶も忘れて団蔵が問いかける。その問いには言葉ではなく視線で応えた。くい、と向けられたの視線の先を追う。
「・・・ヘビ?」
じっと動くことなくこちらを見るヘビに団蔵は見覚えがあった。
「さっきからずっとこっちを見てて動けないの」
「そのヘビ、多分三年の伊賀崎先輩のジュンコです」
「ジュンコ・・・?」
復唱しながらもの中で記憶が掘り起こされる。そう言えばそんな名前のペットを飼っている忍たまがいたような気がする。の記憶が確かならばそのペットは確か。
「もしかしてジュンコって・・・」
「えっとぉ・・・毒ヘビです」
あはは、と効果音がつきそうな団蔵の笑顔に口を引き攣らせるの記憶はどうやら正しかったらしい。
「多分脱走しちゃったんでしょうね」
伊賀崎孫兵のペットの脱走事件はこの忍術学園では日常茶飯事だ。既に慣れてしまっている団蔵にとってはなんてことはない。あえて言うならばこうして団蔵自身がその事件に関わるのは珍しいということくらいだろうか。逃げたペットを捜索するのは生物委員会の仕事だ。
「あのね団蔵君」
「はい」
「このジュンコ、どうにかしてもらえない?」
ペットと言っても毒を持ったヘビには変わりはない。咬まれでもしたら一貫の終わりだ。毒をもっていることが分かったからこそ余計に身動きがとれなくなってしまった。そんなにとっての唯一の救いは団蔵がこの場に現れたことだった。
しかしの言葉に困ったのは団蔵だった。日常茶飯事な事でもこれまで無関係だった団蔵にはどう対処したらいいのか分からなかった。毒ヘビに対しての恐怖はないが、ヘビの扱い方など知らないのだ。孫兵にそれはそれは大事に育てられ可愛がられてきたジュンコだ。ぞんざいな扱いをすれば怒って咬みついてくるかもしれない。咬まれるのはご免だ。
でも、助けを求めているを放っておくことなど出来はしない。ほんの数日前の庄左ヱ門とのやり取りが思い出される。困っていたら助けてあげるのは当たり前。それがあの日以来ずっと気になっていて話してみたいと思っていた相手なら尚更だ。
「少しだけ待っててもらえませんか?」
ジュンコの様子を見る。これだけ話しているのにさっきから動く気配がない。もしかしたらこちらが下手に刺激しなければ時間を稼げるかもしれない。
「すぐに生物委員を呼んできますから!!」
不慣れな自分よりは虎若や三治郎の方が孫兵のペットの扱いには長けているだろう。そうと決まれば急いでその場を引き返す。かくれんぼの最中なので何処に隠れたかは分からないが校庭に戻れば早々に見つかってしまった誰かしらが居るはず。
あっという間に行ってしまった団蔵にはただただ早くと願うばかりだった。


校庭へと一目散に駆ける団蔵だったがその道すがら濃紺の制服が目に止まり急ブレーキをかけた。
「竹谷先輩!」
見上げた先にいたのは竹谷と兵助の二人。
しかし団蔵の目に映っているのは竹谷の姿だった。
驚いたのは竹谷だった。目の前を物凄い勢いで通り過ぎていこうとした存在が急に立ち止まり更には自分の名を大声で叫ぶからだ。
「ええっと、一年は組の加藤団蔵だったか?」
あまり関わりのない後輩なために確かめるようにその名を呼ぶ。
「はい!あの、大変なんです!!」
慌てている団蔵に竹谷は兵助と顔を見合わせた。
そのときになってようやく団蔵の目に兵助の姿が映った。
「久々知先輩も!丁度良かったです!」
付け足された言葉に二人は更に首を傾げる。とりあえず何かあったらしいことを団蔵の様子から察した二人は落ち着けとその肩を軽く叩いて宥める。
「んで、どうかしたのか?」
「はい!実は伊賀崎先輩のペットのジュンコが脱走しちゃって・・・」
「何ぃ!?」
「それでそのジュンコをさんが見つけたみたいで」
「なっ・・・!」
「今身動きが取れない状態なんです!」
竹谷は委員長の居ない生物委員会を纏めている立場で、兵助は伊助と共にを学園に連れてきた人だ。生物委員の虎若・三治郎を探しに行く途中で偶然にもその二人に出会ったのならこちらに頼る方が早い。
「場所は何処だ?」
「食堂の裏手にある木の下です」
「分かった。八、行くぞ」
「おう!」
団蔵の手短な説明でも素早く状況を理解してくれた二人は場所を聞くとすぐに駆け出した。置いてけぼりをくらった団蔵はポツンとその場で立ち尽くす。しかしすぐに我に返り二人の先輩の後を追おうとした。

「団蔵!!」
怒鳴り声にも近いそれに団蔵が振り返れば四年ろ組の田村三木ヱ門がいた。団蔵が所属する会計委員会の先輩にも当たる。
「田村先輩!何ですか?」
今忙しいのに。そう続けようとした言葉は三木ヱ門の言葉によって遮られる。
「会計委員会は集合だそうだ」
「えぇーー!?」
その大声に三木ヱ門が眉を顰めているのも気に留めない。
何故このタイミングでと嘆きたくなった。
「煩い!とっとと行くぞ。遅れたらタダじゃすまないのは分かってるだろ」
襟首を掴まれ引き摺られていく。ここで遅れたらどんな地獄の鍛錬が待ち受けているか。それを知る団蔵には三木ヱ門の手を振り切ることは出来なかった。折角と話すチャンスだったのに。がっくりと項垂れた団蔵に三木ヱ門の怒号がとんだのは言うまでもない。



一体どれくらいの時間が経ったのも分からずはじっと動かずにジュンコと対峙していた。いつ動きを見せるか分からないジュンコに対して気が抜けないはいい加減参ってくる。
さん!」
後ろから聞こえた声にジュンコから視線が外れる。振り返った先に見えた姿に安堵した。
「兵助君、竹谷君」
さん、ジュンコは?」
「こっち。丁度私の目の前にいる」
駆け寄ってくる竹谷の位置からはまだその姿が見えなかったのだろう。若干焦ったような声は、ジュンコを捉えた瞬間にいつもの笑顔に変わった。そしての目の前でじっと大人しくしていたジュンコをいとも簡単に抱え上げた。その戸惑いのなさにぎょっとするを余所に竹谷は良かった、と言って笑っている。毒をもっているヘビに何の躊躇いもなく接することが出来る竹谷を見て言葉も出ない。
さん、大丈夫でしたか?」
「・・・兵助君」
ジュンコとのスキンシップに唖然としていたは兵助の声に反応が僅かに遅れる。
「八は生物委員だから生き物の扱いには慣れてるんですよ」
信じられないものでも見るかのようなに苦笑して兵助が説明する。の世界の事など詳しくは知らない兵助だが、毒ヘビなどと接する機会はなかっただろうと言う予想は当たっていたらしい。
「毒を持ってるのに、大丈夫なの?」
「毒を持っていようがいなかろうが八にはあんまり関係ないんです」
「そう、なんだ」
「まぁ刺激さえ与えなければ咬み付くようなことはないと思いますよ」
どういったことが刺激を与えることになるのかがには分からない。
「いやぁ助かった。さん、ありがとな」
「いや八、そこは謝るところだろう」
「ううん。結局何事もなかったからいいの。私の方こそお礼を言わなきゃ」
何の恐れもなくジュンコに接する姿を見ていれば先ほどまで怯えていた自分の方ががおかしいように感じてしまう。竹谷の首に巻きついているジュンコはそれは大人しい。本来の飼い主は三年生の伊賀崎孫兵だが、やはり生物委員だけあってその扱いは慣れているようだった。




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2009,02,01