「久々知先輩!」
自室に戻ろうとしていた兵助は足を止める。トタトタと駆けてくる足音はこの忍術学園ではあまり聞かない。誰もが普段から音を消して歩く癖があるからだ。上級生程それは巧く、下級生ほど拙い。これだけ遠慮もなく足音を消さず歩くのはまだそういったことに意識が少ない一年生や小松田くらいだろう。後は、もう一人。自身が連れてきた異世界から来たという女性。振り返れば伊助に引っ張られながら歩いてくるの姿が見られた。
「伊助、それにさんも」
兵助の前でピタリと立ち止まった伊助はを振り返って見上げる。
「伊助君ありがとう」
「いいえ。なんか結局学園中歩き回った気がしますけど」
「でも私一人だったら見つけられなかったよ」
しゅんと表情が曇った伊助の頭を撫でてもう一度ありがとう、とは笑う。
「また頼むかもしれないけど良いかな?」
「はい、もちろんです!」
嬉しそうに頷いて兵助に向き直ってぺこりと頭を下げた。
「それじゃあ僕は失礼します」
トタトタと駆けていく。手を振ってそれを見送っていたは伊助の姿が見えなくなったところでその顔を曇らせて兵助を見た。
「どうかしたんですか?」
「うん。あの・・・・・・、」
言いかけて口を閉ざしきょろきょろと辺りを見回す。誰も居ないかを窺っている様子のに代わって兵助は辺りの気配を探った。
「この辺りには誰もいませんよ」
「そっか。あのね、兵助君に聞きたいことがあって」
「はぁ・・・・・・何か、あったんですか?」
「え?」
「浮かない顔してます」
学園に来てからの笑顔を見た数は少ない。学園に来るまでの間も笑顔など片指で数える程しか見せなかった。それも戸惑いや警戒心が混じっている所為かどこかぎこちない笑みだ。ひょっとしたら心から笑ったことなどこちらの世界に来てから一度もないのかもしれない。
未だに教師達がを警戒しているのは時折感じる視線や気配からも察知出来る。が人と接することに惧れを抱いてしまったのはその所為もあるだろう。それでも伊助や庄左ヱ門が何かとを気にかけていたし、食堂のおばちゃん等はに友好的だ。兵助も偶然顔を合わせたのを切欠に級友達にを紹介した。詳しい事情こそ、のことを考えて伏せておいたが、彼らは皆をそのまま受け入れてくれている。そうして誰かと親しくなり話す機会が増えてからは強張ったままの表情も次第に柔らかいものに変わっていったように思う。
本来の性格がどうかは知らないが、こちらの世界に来てからの彼女は思ったことや感じたことが全て表情に出てしまっている。今もそうだ。何か気になるようなことがあったのだろう。まだまだ心から笑っているようには思えないが、漸く普通に見せるようになった笑顔がすっかりなりを潜めてその顔いっぱいに不安が広がっていた。
「そんなに分かり易いかな?」
「伊助は気づいてはいなかったと思いますけど」
「兵助君には分かったってことだよね。・・・でも、伊助君にはこれ以上心配をかけたくはないから」
「俺はいいんですか?」
「兵助君は伊助君よりは年上だし」
「まぁ、それはそうですけど」
「それに、この学園で本当に頼れるのは今のところ兵助君くらいなの」
多分、その言葉の中には様々な意味が含まれているのだろう。
はっと気づいたは慌てて言葉を付け足す。
「伊助君や庄左ヱ門君が頼りないわけじゃないの!雷蔵君たちも良くしてくれるし・・・」
この学園内でが心から信用している人間はまだ少ない。伊助に庄左ヱ門、そしてその中に兵助も入っているのだろう。そこに雷蔵達が含まれない理由はが学園に身を置くことになった経緯にある。全てを知った上で受け入れてくれる人間。どれだけ親しくなろうともその壁を越えなければ彼女の中で信用に値する存在として認識はされないのかもしれない。
たまたまを見つけたのが伊助と兵助だったという理由でその立場に居る兵助としては妙な居心地でもあるのだが、一度を信じると決め、言葉にしたのだ。それは護り通すつもりだ。の経緯を知った人間の中で、彼女が頼れるのが兵助しかいないというのならそれは兵助の役目だ。
さん、何があったんですか?」
の言葉を遮って本題へと話を戻す。パッと顔を上げたはすぐに気まずそうに視線を僅かにずらす。
「喋らない方が良いことだとは思ったの。でも口止めもされなかったから、」
重要な部分の説明を抜いた言葉に兵助は少し首を傾げた。
「私が、異世界から来たってことはあんまり喋らない方がいいのかな?」
「誰かに話したんですか?」
「三郎君に」
「三郎に?」
思わぬ名前が出る。兵助の脳裏に雷蔵の顔を借りている三郎の姿が浮かぶ。
「先生方が私を監視している事に気づいて、それで違和感を持ったみたい・・・その理由を聞かれたの」
勘が鋭く観察力にも長けている三郎の存在を危惧していなかった。確かに三郎なら教師達の動きにも気づいてもおかしくはない。そして彼は好奇心が強い。一旦気になったことはとことん追求する性質だ。
兵助は思わず眉を寄せてしまう。それは気づけなかった兵助の失念だ。
「三郎に何か言われませんでしたか?」
はゆっくりと首を横に振る。その唇は緩やかに弧を描いていた。
「何も。三郎君は純粋に興味を持っただけみたいだったから。兵助君が連れてきたんだから心配はしてないって言ってた」
信用されてるんだね、そう言っては笑った。
「だから話したの。三郎君が私の話を信じる信じないは別として、話しても良いと思ったの」
「それで三郎は?」
「話し終えたところで私の休憩が終わったから」
「そうですか」
「それで、後になって話してしまったことが気になって・・・とりあえず兵助君には伝えておこうと思ったの」
笑っていたその顔が再び曇る。拒絶されることがの頭の中には過ぎったのだろう。伊助、庄左ヱ門と信じてくれた存在が居る中で、激しい剣幕で否定されたあの庵での出来事はにとってはトラウマだ。
どれだけ言葉で誤魔化そうとも彼女の瞳が不安を物語っていた。
「三郎には俺からも話してみます」
俯きがちの顔がほんの少し、上げられる。
「きっと、大丈夫ですから」
三郎も馬鹿じゃない。が語った言葉を、その表情から真か偽りかを見極め損ねるなんてことはしないだろう。
「・・・・・・うん」
「悪い奴じゃないんです」
「うん。それは分かるよ」
「それに、何だかんだで三郎はさんを気に入ってますし」
「・・・それは私の反応が面白いからでしょ?」
膨れっ面に兵助は笑った。三郎の変装にあそこまで過剰に反応するのはくらいだ。始めこそ驚いていた一年生も最近では慣れてしまったらしく満足のいく反応が貰えないとがっかりしていたのだ。そんな折にが現れたものだから三郎の最近の標的はばかりだ。それこそ三郎がを気に入ってる何よりの証だった。





と別れた兵助はその足で忍たま長屋を目指す。向かうのは自身の部屋ではなくろ組の部屋が集まっている方角だ。その中の鉢屋三郎・不破雷蔵と書かれた札の前で立ち止まる。室内の気配は一つ。確信はないがそれがどちらの者かは何となく分かった。
「三郎入るぞ」
一応一声かけてから戸を開けた。そこに遠慮はない。開けた先、背を向けて座っていた姿がくるりと振り返る。顔は雷蔵だが、それは間違いなく鉢屋三郎だ。兵助を捉えたその顔がニヤリと笑う。
「やっぱり。そろそろ来る気がした」
「三郎」
「随分と面白いことに首を突っ込んだみたいじゃないか兵助」
兵助は溜息をつく。のあの事情を面白いことだと言うのは学園長の他にこの友人くらいだろう。
「正直驚いたね」
「だろうな」
「しかし兵助は信じたんだろう?」
「ああ」
「その根拠は?」
不敵に笑っていた三郎はふと笑みを消した。言葉一つ見逃さないとその瞳がぎらりと光っているように感じる。
「信じたと言うよりは嘘はついてないと判断したんだ」
戸口に背を預け、腕を組む。真っ向から三郎のその視線を受け止めた。
「騙し騙されの世界で生きてるんだ。見たこともない格好をして倒れているさんを見つけたときは疑ったさ。あの時は伊助もいたから余計に警戒心は高まっていたと思う」
まだ未熟な一年生を護るのは当然の役目だ。
兵助達もそうして先輩達に護られ、助けられながら成長してきた。
「けど、それも一瞬にして薄れたけどな」
「どういうことだ?」
兵助は視線を外へと移す。虚空を眺める眼差しの裏に見えるのは過去の出来事だ。
「なぁ、三郎。実習で戦に参加したときのこと覚えてるか?」
「は?・・・覚えてるが?」
「あの実習の中で、戦で家族を亡くした人を見ただろう」
「・・・・・・・・・」
三郎が何ともいえない顔になる。三郎にも兵助にとっても思い出したくはない光景だ。
「同じだったんだ。ここが異世界だと知った時のさんの表情が」
世界から色が失われたかのように虚ろで、深く沈んだ双眸。微かに震える唇からは声にならない言葉と乱れた呼吸音が落ち続ける。伊助が声をかけるまで絶望だけに支配されていた。
「あれは決して演技で出来るようなものじゃない」
それが不可能なことは他人の顔を借り、その人物のマネをすることを得意とした三郎が一番よく分かっているだろう。所詮は偽り、演じるにしても限界がある。実際に体験をしたことがない事を偽って表現してもどうしたって違和感や違いが見えてくる。曲がりなりにも五年間この学園で学んできたんだ。それを見落とすようなヘマはしない。
「これが根拠だよ」
す、と三郎に視線を戻す。顎に手をあて考え込んでいた三郎は少しの間を置いて兵助を見た。そこにはいつもと変わらず飄々とした鉢屋三郎の姿がある。
「ふーん、なるほどね」
「で、どうなんだ?」
「どうもこうも、私は始めから彼女の事は疑ってはいないさ」
「やっぱりそうか」
の話を聞いている限り、三郎の気になっているところはを警戒する教師達のその理由である。自身を信用してないわけではなさそうだった。
しかしその言動がの不安を広げ、警戒させてしまったのも事実だった。
「兵助の意見も聞けたし、真相も解明できて私としてはこれで満足だ」
ニヤリと三郎が笑う。
「それにさんをからかうのは面白いしな」
「お前なぁ・・・・・・まぁそれはこの際いいとして――」
「分かってるさ」
兵助の言わんとしていることを悟って言葉を遮る。
「ちゃんと謝る。それで良いんだろう?」
「ああ」
陽は暮れ始めている。そろそろ晩飯の時間帯だ。
の元に向かったとしても食事の準備の為に忙しなくう動き回ってそれどころではないだろう。
「それにしてもすっかり保護者だな」
満足そうに頷いていた兵助がきょとんとする。
「連れてきた責任もある。出来る限り助けたいと思うのは当然だろ」
「ふぅん」
「それにそれ微妙に間違ってるぞ。一応さんの方が年上なんだから」
寛ぎ始めていた三郎は兵助の言葉にその相好を崩した。
「誰が年上だって?」
さん。俺達より二つ上だったと思うけど」
「嘘だ、あれは私達と同じくらいだろう」
三郎の頭の中での顔が浮かぶ。
童顔というわけではなさそうだが、どう見ても年上には見えなかった。




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2009,01,21


難しい回でした。特に三郎と兵助の会話。