教室の戸の隙間からその室内をひょっこりと覗き込んだ。つい先ほど授業の終わりを示す鐘が鳴ったばかりだ。通常通りならば休み時間に入っているので遠慮は必要ないはずだが、はそっと様子を窺う。そこは1年は組と書かれた札がかけられている教室。1年は組といえばにとって唯一顔と名前が全員一致しているクラスになるのだが、面識があるのは伊助と庄左ヱ門の二人だけ。他の生徒達は初対面に近い。さすがに堂々と入ることは出来なかったので、先ず二人がいるかどうかを確かめようと思った。 教室から生徒が出てきたのはちょうどそのタイミングだった。人がいると思っていなかったのか「うわ!」と言う声と共にその生徒の体が後ろに傾く。は慌てて手を伸ばした。尻餅をつきそうになるそれを寸でのところで引き止める。 「ごめんね、大丈夫?」 屈んで、目線を合わせて謝る。 驚かせてしまった相手・加藤団蔵は目をパチリと瞬かせる。 「・・・あ、はい。大丈夫です」 「そう、良かった。あのね――」 「さん!」 教室の後ろの方から声がした。団蔵とは揃ってそちらへ振り向く。 兵太夫達とお喋りに興じていた伊助が顔を綻ばせて駆け寄ってくる。団蔵はそんな伊助に内心で驚く。お調子者が多いは組の中で伊助は庄左ヱ門と同じで落ち着きがあってしっかり者だ。それ故に団蔵は何度部屋の掃除をしろ、洗濯物を溜めるなと注意されたかしれない。その伊助が兵太夫達との会話も途中に切り上げて落ち着きなく駆け寄ってくる。その姿が団蔵には珍しく映った。 「伊助君」 すぐ傍で聞こえた声に団蔵はを見上げた。黒い装束を身に纏った上級生と歳が変わらないだろう女性に団蔵は見覚えがなかった。しかし教師や事務員が着るその黒衣装を纏っているのだから学園の関係者なんだろう。 「あの、」 伊助を見つめて頬を緩ませていたに遠慮がちに団蔵は呼びかけた。の視線が団蔵に落とされる。誰ですか?それでは何だか失礼な気がして口は開いたまま息だけが漏れる。不思議そうなの視線に団蔵は気まずくなって口をもごもごさせた。丁度、そのとき伊助が団蔵の隣までやって来た。 「団蔵どうかした?」 団蔵の様子に気付いて伊助が問いかける。その事にホッとしながらには聞こえないようそっと耳打ちする。 「伊助この人誰?」 「あぁ、この人はさん。少し前から食堂のおばちゃんの手伝いをしてるんだ」 へぇ、とを見上げれば目が合う。 「最近は事務員の手伝いもしてるんだけどね」 「そうなんですか?あ、こっちは加藤団蔵で同じは組なんです」 「団蔵君。初めまして、よろしくね」 「はい、よろしくお願いします」 にっこり笑って差し出された手を握り返す。そう言えば新しく誰かが雇われたと言う話を小耳に挟んだことを思い出す。それが目の前の彼女なのだろう。 「さん、それでどうかしたんですか?」 「そうだった。伊助君にお願いがあって来たんだけど・・・今大丈夫?」 「大丈夫ですよ」 「良かった。あのね、兵助君の所まで連れてって欲しいの」 「久々知先輩のところですか?」 「うん。話さなきゃいけないことがあるんだけど兵助君の教室も知らないし、よく行きそうな所も分からないの」 未だに学園の敷地内を把握しきれていないである。覚えが悪いわけではなく、単純にこれまで覚える時間と余裕がなかったのだが、今回はそれが仇となった。兵助に会う為だけに伊助を頼るのは申し訳ないと思ったが、手っ取り早い方法はそれしか思いつかなかった。 「分かりました。案内します」 「ごめんね」 「いいえ。困ったらすぐ言ってください。僕に出来ることなら力になりますから」 「・・・伊助君、ありがとう!」 にこにこ笑う伊助にその場で抱きしめたい衝動に駆られたがぐっと堪える。伊助の隣には二人の会話を眺める団蔵の存在があったし、教室の後ろの方から好奇心に満ちた視線を感じたからだ。 「じゃあ行きましょう」 「うん。・・・あ、団蔵君またね」 団蔵に手を振り、後ろに残っていた1年は組のメンバーに小さく頭を下げてから教室を出る。 手を繋いで歩く二人は姉弟のように仲良さげに映ってみえた。 団蔵は暫くその場から二人の背中を見つめていた。 「団蔵ーさっきの人誰?」 「おわっ!兵太夫、驚かすなよ」 「何言ってんの?団蔵がぼけっとしてたんだろ」 「兵太夫の言うとおり。団蔵すっごく間抜けな顔してた」 「でさ、さっきの人誰だって?伊助と仲良さそうに話してた人」 気がつけば教室に残っていた生徒が団蔵の元に集まっていた。皆、教室に顔を見せた伊助と親しそうな女性の存在が気になっていたのだ。 「さんって言って新しく雇われたんだって。事務の仕事と食堂のおばちゃんの手伝いをしてるだってさ」 「へえーそうなんだ。知らなかったぁ」 「そういえば最近、並んで待つ時間短くなったよね」 「確かに。そっか、あれはあの人が手伝ってるからなんだ」 そっかぁ。そーなんだぁ。皆が一様に納得する。その中で首を傾げたのは団蔵だ。 「でもさ、何で伊助はあんなにさんと親しいんだろう?」 一番近くで二人の会話を聞いていた団蔵の疑問はずっとそこにあった。新しく人を雇ったと言う噂を聞いたことはあるが、会うのは今日が始めてだ。それは今此処に居る皆にしても同じな筈だ。それなのに伊助はいつの間に彼女に出会ってあんなにも親しくなったのか。団蔵の意見に皆一斉に首を捻って考え始める。言われてみればそうである。 「みんな、どうかしたの?」 唸り声だけが教室内を支配する中、戸口からの声に団蔵は顔を上げた。 「庄左ヱ門!」 「そうか庄左ヱ門なら知ってるかもしれない!」 「うん。学級委員だし伊助とは同室だし」 「伊助がどうかしたの?」 級友達から爛々輝く眼差しで見つめられ引き気味に聞き返す。そういえば同室の伊助の姿が見当たらない。伊助に何かあったのかと一番近くにいた団蔵に聞けば、彼は事の顛末を簡単に説明してくれた。 「―――ってことなんだけど、庄左ヱ門何か知ってる?」 「なんだ、さんのことだったのか」 「庄ちゃん、あの人のこと知ってるの?」 「知ってるもなにも、さんを連れてきたのは伊助なんだ」 「「「「「「「「「えーーーーー!!!」」」」」」」」」 学園中に響き渡らんばかりの声が上がる。 「正確に言うと火薬委員会になるんだけどね」 驚きで目を丸くしてる級友達に庄左ヱ門は一人苦笑した。 「そっかぁ。だからあんなに仲良さそうだったんだ」 「でも一体どういう経緯で?」 「それはー・・・・・・」 「それは?」 「ま、まぁ色々とあったんだよ」 どこまで口にしていいのか分からない庄左ヱ門は笑って誤魔化した。話すにしてもそれは自身が語ることだろう。庄左ヱ門が簡単に話してもいいような内容ではないことは、あの学園長の庵の中での教師達のやり取りを見ていれば分かる。 「ほんとにー?」 「庄ちゃん、なんか誤魔化してない?」 教師陣が警戒している中で、を信じてくれる味方は欲しい。皆ならの話しも信じてくれるだろう確信はあった。けれど、庄左ヱ門が信じていてもが皆を信用してくれなければ意味はない。 「それよりも、皆にお願いしたいことがあるんだ」 疑わしそうに見つめる視線を振り切って無理矢理話をすり替えた。 「なになに?」 「さんはまだ学園に来たばっかりなんだ。だからもし、困ってたりする姿を見かけたら助けてあげてくれないか?」 そうやって話すきっかけを与えて、皆と親しくなってくれればいい。拒絶されることに過敏になっているから打ち解けるには時間がかかるかもしれないけど、彼らならすぐにを慕ってくれるだろう。そうしていつか、が学園に来たその理由を彼女自身から皆に話してくれたら。 「なーんだ、そんなこと」 「困ってたら助けてあげるのは当たり前だろ」 「伊助が連れてきた人なら尚更にね」 口々に出てくる賛同の言葉。伊助と親しそうなの存在が気になっていたのは皆同じだ。話せる機会があるのなら話してみたい。 「なぁ庄左ヱ門」 納得したように皆がばらけていく中で団蔵一人がその場に残った。 「あの人、さんさ、何か訳ありなの?」 「・・・どうしてそう思うの」 「なんかさんの様子と、伊助の態度見てたらそんな気がしたんだ」 伊助を頼ってきた。案内くらい頼めば誰でも引き受けてくれるだろう。それなのにわざわざ伊助を探しに来たこと。何となくだが気になった。 「ぼくからは何も言えない」 「庄左ヱ門それって」 訳ありだと言っているようなものだ。続く言葉は庄左ヱ門の有無を言わせない眼差しによって呑み込まれた。 「伊助はさ、自分がしっかりしなきゃって思ってるんだよ」 何かとを気にして様子を見に行ったり声をかけたりしていることは庄左ヱ門しか知らない。学園に来るまでに浴びた視線と教師達の疑わしい相手に向ける眼差しに怯える姿を見て力になってあげたいと、就寝間際に伊助が語っていたことを思い出す。庄左ヱ門とて同じ気持ちだ。だから二人して時間を見つけては会いに行っている。ただより伊助の方がその気持ちは強いのだろう。 意味を掴みあぐねて眉を寄せる団蔵に笑いかける。 「まずはさ、さんと話してみよ」 「話すだけ?」 「うん。話すだけでもきっと見えてくることはあるからさ」 実際、庄左ヱ門と伊助だけではにしてあげられることは少ない。先ほどの団蔵の話を聞いてが兵助に会いにいったことを思い出せば、一年生の自分達よりも五年生で成績優秀でもある兵助の方が何倍も頼りにはなるだろう。それでも出来る限り力になってあげたいと思うのだ。一年生で落ちこぼれだと言われるは組でも皆揃えば一人を護ってあげることくらい出来るはず。 のために、そして団蔵のために庄左ヱ門が言えることはそれくらいだった。 BACK : TOP : NEXT 2008/12/29 分かり難いですけど、三郎の話から続いてます。 |