笑いを噛み殺そうと口許を押さる紫乃の姿を半眼で睨みながら頬杖をついた。バイトとして夕方から店に入ったが仕事は一向に進まなかった。いつもと比べたら客の数が少ないことも手伝ってか、紫乃は今朝からの学校の様子に興味津々で私は語らずにはいられない状況だった。周囲の噂に神経をすり減らす私の様に同情の色を浮かべていた瞳は平古場くんとのやり取りを話し出した辺りから薄れていった。次第にその口許には笑みが浮かべられ、全てを話し終えた頃には笑いを堪えきれないようだった。

「紫乃お客さん」
「ちょ、今無理。お願い」

涼しげな呼鈴と共に扉が開かれ二人組の女子高生が入ってくる。肩を揺らしながら笑う紫乃に呆れながら入口で立つ彼女達の元へ急ぐ。二名様かを確認し空いたテーブルへ案内する。入ってきた瞬間から気付いていたけれどうちの高校の制服だった。だからか、私の後ろを歩く彼女達の話に平古場くんの名前が上がっても驚きはしなかった。ただ気付かれぬように溜息をつく。学校を出て、漸くその話題からも解放されたと思っていたのに、どうもそうはいかないらしい。メニュー表を差し出しながら添えた笑みがぎこちなくならぬように気をつける。
戻ってきた私の顔で紫乃はすぐに察したのか収まったはずの笑みを再び浮かべていた。

「災難ね、ほんと」
「水とオーダーは紫乃が行ってきてよ」

はいはい。答える声はてきとうなものだった。けれど始めからそのつもりだったのか既にグラスには水が注がれていた。





04





溜息をつく頻度が明らかに増えた気がする。噂は時間が経つにつれて薄れ消えていくものではあるけれど、まだ一週間と経っていない今、校内はまだどこかざわついている。興味が薄れた人もいるようだけど、平古場くんは絶大な人気を得ている人だったから一部の女子の間ではまだまだ騒がれているようだった。今回の噂について平古場くん自身が否定も肯定もしなかったことも大きいと思う。否定してくれると私の気持ちも少しは楽なのに、と思うこともあるけれどそれは私が口にしていいことではなかった。振った相手としてそんな事を言うのは、気持ちを伝えてくれた平古場くんに対して失礼だ。

「…でも、さすがにしんどい」

ここ数日、頻繁に図書館の奥の小部屋に避難していた。相変わらず校内のどこかで聞こえる噂に参ってしまっている。人の噂も七十五日と言うけれど、それを待っている間にこちらが疲れ果ててしまいそうだ。少しでもそんな声から逃れようと時間が空けばこの部屋に逃げ込むようになった。けれど、それはそれで問題が浮上した。

「……ここは委員以外使用禁止なんだけど」

じとりと睨めつけた先にはきょとんとした顔の平古場くんがいる。さも当然のように居座り暇を弄ぶ彼はここのところ頻繁にここに顔を出すようになった。私の言葉を聞いても悪びれた様子もなく「別にいいだろー」なんて言って呑気に笑っている。その度に数日前の自分の行動と言葉に対して後悔することになる。

「よくないよ、委員長に知られたら私の信用度が落ちるんだから」

何度か仕事を手伝うようになって親しくなった委員長が他言無用を条件で私に特別に教えてくれたのに。ばれてしまったら積み上げてきた信頼が跡形もなく崩れが落ちてしまう。図書委員の中でもここまで頻繁に使用しているのは私くらいだろう。それくらいこの場所が気に入っているのに。もしも、使用禁止なんてことになったらどうしてくれよう。全く危機感を感じてくれないのはそれが平古場くんにとっては他人事だからなんだろう。人の気も知らないで。心中でついた悪態は空気に触れることはなく呑み込まれていく。その変わりに吐き出しそうになった溜息を何とか思い留めて手を動かす。

「さっきから何やってるんばー?」

彼との会話を成立させながらも視線はずっと手元ばかり見つめている。それを不審に思ったのか暫くしてそんな声がかかった。ちらりと平古場くんを一瞥すれば、彼は肩肘をついて退屈そうにこちらを見ている。暇なら屋上でも行ってくれたらこちらとしても楽なのに。見られている視線に、小さくながらも緊張を強いられているように感じて何となく落ち着かない。気を休める為にここに避難したはずなのに、ちっとも休めていないのは気のせいでも何でもないだろう。

「委員会の仕事ばーよ」
「へぇ」
「リストに載ってる処分する本をダンボール箱から探してるの」

引き寄せたダンボール箱の中からリストに載っている題名と同じ本を探し出す。古すぎて痛んでいたり焼けていたりとおよそ綺麗とは言い難い本を一冊ずつ取り出しながらリストにないか示し合わせる。意外と地味で時間のかかる作業だけど、こういった単調な作業は嫌いじゃなかったし、ここ最近、頻繁にこの部屋を利用していることを知った委員長から頼まれたので断るわけにもいかない。リストに載っていた本は別のダンボール箱に移し、それ以外は元に戻す。処分する本の数が多いのかリストに載っている一覧は文字が小さくて読みづらいから見落としやすい。平古場くんとの会話に意識を向けすぎていればミスしてしまいそうで、それも気を張る原因の一つとなっていた。
リストと一冊手に取った本を交互に見やって一覧に載っていないか探す。けど、これ本当に文字が小さすぎる。別に一枚にまとめなくてもよかったのに。もっと文字のサイズを大きくして数枚に分けてくれた方が作業もはかどったのではないだろうか。今度の委員会で委員長に進言しようと思いながらリストと睨めっこする。と、手の中に収まっていたそのリストがスッと抜き取られる。

「今探してるのは何てタイトルばー?」
「え…××社から出てる国語辞典だけど」
「んー……お、あったさァ」

ひょいと私の手からあっさりとリストを奪い取られる。かと思えば私のもう片方の手に収まっていた本を目で指し題名を聞いてきた。言われるままに答えれば、唸るような声が数秒したかと思えば嬉しそうな声がリストに載っていることを告げてきた。聞きたいことがあったけれど、一先ず後回しにして持っていた本を処分用のダンボール箱の中に収める。両手が空いたところで彼を見れば、ニッと唇を持ち上げて楽しげに笑う姿がある。

「あの、平古場くん」
「次の題名はぬーがよ」
「いやその前に…じゃなくって!」

彼のペースに流れそうになって、慌てて声を上げてそれを止める。そんな私をきょとんとした目で見た平古場くんは「ってツッコミ担当ばー?」と面白そうに笑っていた。いや、別にツッコミ担当も何もボケをしている人もいないし、ツッコミ役になった覚えもない。ただ、その場の流れを止めたくって思わずつっこんでしまっただけなのに。呆れてモノが言えない私に笑いが収まった平古場くんは先ほどまでとは別の笑みを添えて喋りだす。

「一人でやるより二人の方が早く終わるさァ」

向かい側に座っていた平古場くんは立ち上がって回り込み、私の隣の椅子を引いて座る。ギシッと軋むパイプ椅子の音がよく響く。言っている意味は分かったけれど、まさか平古場くんがそんなことを言い出すとは思えず近くなった距離で彼を見上げた。

「それはそうだけど、」
「ここを使わせてもらってる礼も兼ねてっつーことでどーだばー?」
「…それじゃあ、お願いしようかな」

断る理由がなかったし、タダでこの場を利用させるのも何となくずるいなぁと言う思いもある。作業が早く済むことは間違いないだろうし。悪い提案ではないと新しく本を一冊手にしてそのタイトルを読み上げる。埃の被ったそれをパンパンと優しく叩いて落としながら、隣に座る平古場くんを見上げた。リスト表を顔に近づけ睨めっこする形できょろきょろと目を動かして読み上げたタイトルの本が載っていないか探している。見つけ出すまでの時間が私と比較すると随分と早かった。お、と言う声が上がったかと思うとリストを眺めていた瞳が不意を衝かれたかのようにこちらに向く。あった、と笑って伝えてくる平古場くんの言葉に従って仕分ける。不用意な会話が繰り出されることなく、ただ坦々と作業は進み、ダンボールの中にあった本はあっという間に振り分けられていった。それは多分、私一人で終わらせる時間の半分にも満たなかったと思う。
処分する側のダンボール箱に目印をつけて封をする。これは今度の委員会の時に先生に提出すれば問題ない。時計に目を向ければまだ時間に余裕があった。私一人だったら昼休みが終わるギリギリまで掛かっていたに違いない。

「平古場くん、あの、ありがとう」
「これくらいどーってことないばーよ」

ずっしりと重みのあるダンボール箱を軽々と担いで部屋の隅へと運ぶ背中に声をかければ肩越しに振り返った平古場くんは不思議な程楽しそうに笑っていた。




2008/11/24