そんな筈はないのに、視線が全て自分に向けられている気がした。何気なく聞こえてくる一言一言が自分に向かって言われているようで酷く居心地が悪い。ついた溜息は今日で何回目だろうか。数えたらキリがないに違いない。 翌日。予想通りと言うべきか校内は一つの話題で持ちきりだった。平古場凛が振られた。校内どこを歩いてもそんな声が聞こえてきて胃がキリキリと痛み出す。上級生から後輩、更には男子生徒までもがそれを世間話の一つとして取り上げているのだから相当暇なのかと言ってしまいたくなる。周知の事実と認められているからなのか、皆声をひそめることをしない。それが余計に私の神経をすり減らす。 「振った相手の子、二年生って噂だよね」 「あ、それ聞いた。にしてもバカだよねその子」 バカで悪かったな。一つの机を囲んでそんな事を話している女の子達のグループの声に内心で悪態をつく。もちろん口に出して言えるわけもない。振った相手が私だと言うことは知られてはいないようだけど、このままでは知られるのも時間の問題かもしれない。噂が耳に届く度、ずっしりと重い荷物を抱え込んだみたいに気分が堕ちていく。我関せずで通そうと決め込み、身を縮ませるようにして半日を過ごした。たった半日でこんな状態で、果たしてこの先持つだろうか。昼休みになり人が減った教室でも、話題はそればかり。せめてご飯食べる時くらいは気分を落ち着かせたい。そう思ってお弁当箱が入った鞄を手にして教室を出た。 教室を出る際、平古場くんの席に視線を移す。噂の渦中の彼は朝からその姿を見ることはなかった。平古場くんがサボることはいつものことだけど、渦中の彼の存在が居ないことは噂を大きく広める原因にも繋がっていた。…だからと言って彼を責めたいわけじゃないけれど。それにいたらいたで、何だか気まずい。 午後は、サボろう。 授業自体はいつもと変わらないけれど今の教室の空気は精神力を根こそぎ奪っていく感じがしてならない。それを言うならば学校自体も億劫だったんだけど。 03 保健室はご飯を食べるには向かないし、屋上は事の発端が起きた場所で今の私にとっては鬼門だ。もう二度と屋上には近づかないと昨日固く決意した。行き先は決めていた。一階に下りて渡り廊下の先にある図書館。別館として存在するその建物は校舎とは一辺して静かで穏やかな時間が流れている。館内での飲食はもちろん禁止だけど、私が向かうのは図書室のその奥の小さな小部屋。棚には入りきらない本や古くなり棚から外された本などが閉まってある倉庫のような部屋だ。ただ定期的に掃除もされているし、使われていない本はダンボールに収納され部屋の隅っこに積み重なれているので狭くはない。部屋のど真ん中には机と椅子が設置されている。一般の生徒は立ち入れない。図書委員だけの特権だ。その図書委員である私はちょくちょくその部屋を利用していた。他の図書委員はここまで移動するのが面倒らしく滅多に人が訪れることはない。一人有意義な時間を過ごせて校内では一番お気に入りの場所だった。 階段を下りて、渡り廊下を目指す。最後の一段を下りたところで前方に顔を向ければ噂の渦中の、その人が居た。噂は彼の元にも届いているだろう。これだけ騒がれているのだから。その割に平古場くんは普段と変わらないように感じられた。その隣を歩く裕次郎と楽しげに会話を繰り広げている。一瞬、裕次郎と視線が交わる。けれど、慣れたことのように裕次郎はすぐに視線を別の場所に向ける。いつもと変わらない幼馴染の態度に彼はまだ振った相手が誰なのかを知らないのだと悟った。気付けば、何かしらのアクションを起こす筈だから。私もまた同じように視線を逸らす。出来れば遭遇したくなかった二人に今日、このタイミングで出くわすのは運が悪いとしか言い様がない。 特に、平古場くんには。伝えられた気持ちは真摯なもので、胸に響いて、確かに心を震わせたけれど謝る以外の選択肢を私は持ちえていなかった。噂が校内に出回っている今、平古場くんとの接触はなんとしても避けたかったのに。 二人から外した視線を足元に向けて歩く。少なくともそうすれば顔を見ずに済む。一歩ずつ距離が縮まるにつれて鼓動が緊張にも似た音を立て始めた。何で、私がこんなに動揺しなきゃいけないんだ。気まずいのは相手も同じはずなのに、届く声はそんな気配すら含んでいない。まるで私一人が昨日のことを意識してるみたいだ。罪悪感から来るそれは、捨ててしまっても良かったのかもしれない。平古場くんにとっては昨日のことは気にすることもない、その程度の出来事だったと言うことだ。 足音と二人の声がすぐ側で聞こえてきた。すれ違う、その瞬間。風に靡く金色の髪が思い浮かんで顔を上げてしまったのがいけなかった。謀っていたかのように目が、合う。裕次郎との会話を成り立たせながら、その双眸は真っ直ぐ私を見ていた。昨日と何ら変わらない瞳だった。反射的にバッと顔を背ける。 「なぁー凛。誰なんばー?やーが告ったの」 「さぁーなー」 そんな声を振り切るように足は動く。早く早くと何かに急かされるように。辺りに見抜きもせず歩き続け、図書館の中の奥にある部屋に入るまで息がつけなかった。パイプ椅子を引いてずるずるとそこに座り込む。そのまま机に倒れ込むように突っ伏した。静か過ぎる室内で自分の少し荒い息遣いだけが音として存在している。 まさか目が合うなどと思いもしなかった。誰かに告白したことなどないから分からないけれど、振られた場合って相手の顔を見るのも気まずいんじゃないの。私のそれは偏った知識なのだろうか。それとも平古場くんにそんな知識は通用しないのか。どちらにしても気まずく思っているのはやはり私だけなのかもしれない。 「へぇ、こんなとこがあるなんて初めて知った」 入口の方からの声にがばっと身体を起こす。開けっ放しだったドアのところに立つ人は、間違いなくさっきすれ違っ平古場くんだった。そう言えば急いでた所為かドアを閉めるのを忘れていた。平古場くんは片手で静かにドアを閉める。隔離された部屋に私と平古場くんの二人が残された。 「平古場くん」 「良いサボり場所やっし」 こちらを見てニヤりと笑った彼はそのまま私の目の前のパイプ椅子に腰をかける。机を挟んで向かい合わせになる。確かにさっきすれ違った筈だった。裕次郎と二人で私が向かう方向とは全く逆の方へと歩いていたのに。何で。 「げっ、クーラーまで付いてるとか卑怯じゃないんばー」 背後の壁際に設置されたクーラーを肩越しに見上げる。使用度が少ない割に設置されているそれが私がお気に入りの理由の一つだ。さほど広くもない部屋の隅に溜まった本の整理は意外と重労働で夏は暑すぎてやっていられないと言う意見が上がった結果だった。このような場所に特別に設置されたそれは使用するには許可が必要だった。けれど本の整理の為、と上辺だけでも告げればあっさりと許可は下る。それを知っているのは委員長と各学年の代表者のみ。何かある度に手伝ってくれる褒美だと委員長がこっそり教えてくれたのだった。 「許可がないとクーラーは使用できないことになってるの」 勿論、平古場くんにその事を教える義理はない。秘密だと委員長に言われているし、教えたら彼はここに入り浸るようになるだろう。お気に入りの場所をあっさりとられてしまう気がして言う気にはなれなかった。 「平古場くん」 「ぬーがよ?」 「私に何か用でもあるんばー?」 笑っていた顔が途端消えて真面目な顔つきに変わる。裕次郎を置いてまで引き返してきた理由が知れなかった。昨日の今日でこうして堂々と会いに来る平古場くんの度胸の良さには拍手を送りたい。もしも私が同じ立場だったら一日中顔を合わせないように避け続けるだろう。やっぱり平古場くんを常識の範囲で捉えてはいけないのかも。 「…なぁ」 「何ですか」 「やーは、そんなに俺が嫌いなんばー?」 言葉に詰まった。肩の力が抜けた気がする。ぽかんと平古場くんを見る。照れ、なのか僅かに視線をずらした平古場くんの顔は拗ねているようで、言葉がすぐに見つからない。聞きたいことの意味がまるで読めない私はただただその顔を見つめる他なかった。 「あーくそ!なんか言えよ」 「だって言ってる意味が分からないさァ」 くしゃくしゃと自分の髪を掻き毟りながら一方的に責められても分からないものは分からない。確かに、平古場くんの気持ちには答えられないと告白を断ってしまった。それはあの平古場くんを振ったと言うことになるのだけど、だからって彼を嫌いとは言ってはいない。それに平古場くんの言い方が私にはよく分からなかった。そんなに、って何。頭には疑問詞ばかり浮かべる私に平古場くんは苦渋の顔で溜息をついた。 「さっきすれ違った時目合っただろー?」 「あぁ、…うん」 「あからさまなくらいに逸らしたやっし」 今度は視線を合わせまいと別の場所を見たままに平古場くんが言う。その言葉にほんの数分前の出来事が思い出される。まさか目が合うとは思っていなくて、驚いて思わず顔を背けてしまった。すれ違い様の至近距離で、だから余計に吃驚した。少しつり目がちなその瞳には自分の姿が映っていて昨日の出来事が私の中で再生されていた。 咄嗟の事だった。だから何か思って逸らしたわけでもなかった。顔を上げてしまったことだって私の中では予想外だったんだから。それでも、平古場くんはそうは思わなかったと言うことだろうか。様子を窺うように見た平古場くんの顔に余裕はなかった。周りに流されず自分の好きなように行動してきた人だと思っていたから、その表情は新鮮だった。 「…別に、嫌いじゃないさぁ」 私が顔を背けたことをそう捉えたのならば、彼は案外普通の人じゃないんだろうか。意識してやったことではないけれど、もしもそれが平古場くんを傷つけてしまったのなら。私と同じように平古場くんも昨日のことを多少なりとも気にしていると言う証だった。自分ひとり気まずいのだとばかり思って、噂に神経をすり減らして、ずっしり重たくなっていた気持ちが、ほんの少しだけ浮上する。 「平古場くんのこと知らないのに、何で好きとか嫌いとか言えるんばー?」 平古場くんが一体私のどこを好きになってくれたのかは知らないけれど、私はよく知りもしない人を好きだとか嫌いだとか判断出来る程器用じゃない。見た目からして苦手とか、気が合わないだろうなぁ、とかそう言った印象は受けることはあってもそれはあくまでも印象だ。今は親友と呼べる仲の紫乃だって初めはとっつき難そうな子だと思っていた。私にしてみても人見知りな面があるから最初の印象と親しくなった後での印象は完全に変わってくる筈だ。それも紫乃が立証してくれるだろう。 目を見開いて私を見ていた平古場くんは間もなく、声を上げて笑い出した。裕次郎から齎された話では分かり難い人だと思ってたけど、平古場くんは案外顔に出やすい人なのかもしれない。何を思って笑っているのかは知れないけど、それはすごく嬉しそうな顔に見えた。笑いが収まった頃になって、再びその瞳が私を真っ直ぐに捉えた。けれどその唇には笑みが添えられている。 「俺、のこと諦めないばーよ」 不敵ともとれる態度で、恥ずかしげもなく言うから面食らう。言葉の意味を理解するのに時間がかかってしまった。声もなく悲鳴を上げる私を余所に、平古場くんの態度は更に強気なものへと変わっていく。 「知らないってんなら知ってもらおうじゃん」 ニッと笑う平古場くんに私はつい今しがたの自分の発言を後悔する。もしかしたら私は余計なことを言ったのかもしれない。 2008/09/27 → |