気付けば日が暮れていた。紫乃の店を出て自宅を目指す。店の手伝いをしつつ、紫乃と話していれば大抵帰りはこの時間になってしまう。家までは歩いて数十分の距離。一人だと浮かんできてしまう問題に頭を悩ませていれば背中に声がかかった。すぐ側に自転車が一台、止まる。 「まーた寄り道してたんばー?」 「裕次郎」 カゴからはみ出すテニスバッグがやけに目に付く。彼のトレードマークの帽子が影を落として表情を隠してしまっていた。けれどきっと笑っている。空気を通して伝わってくる振動がなくてもそれは何となく分かる。長年の経験と言う奴なのかもしれない。同じように笑い返したことを、たとえ私の表情が見えなくても裕次郎は気付くんだろう。 02 高校に入学して二年目。初めて足を踏み入れた屋上は思い描いていた世界とは程遠かった。漫画やドラマで影響を受けすぎていた所為かもっと綺麗で整備がととのっているのかと思っていた。実際フェンスは錆びかけ、地べたは汚れが目立っていてどことなく薄汚い。現実なんてこんなもの。屋上は本来、立ち入り禁止の場所だからサボり以外の生徒達は近寄らないし清掃も行われない。汚いのは当然だった。 穏やかな風を真正面から受け止めながら座れそうな、なるべく綺麗な場所を探す。午後一番の授業が体育だなんてついていない。激しく動き回ると気分が悪くなりそうで更衣室に向かう生徒達の中から抜け出してきた。向かう先はどこでもよかった。教室は誰も居なくなるし、気分が悪いからといえば保健室で休ませてもらうことだって出来た。でも、ささやかな好奇心がうずうずとうずき出して気付けば足は屋上へと向かっていた。初めての屋上で初めてのサボり。そこは想像していた景色とはちょっと違うけれど、ちょっぴりだがあこがれていたことには違いなかった。 「優等生がサボってもいいんばー?」 不自然に肩が飛び跳ねる。だって入ってきた時には誰もいなかった。古く錆びれた戸は開けるとギギギと音がして誰か来ればすぐに気付く事ができるし。そろそろと視界に入らない背後を振り返ってみてもそこには誰もいなかった。 「はは、どこ見てるんさァ」 またもや声がする。しかも私の行動を見物していたような言い方。けど次はちゃんと、大まかだが位置を把握できた。給水塔の、その上を首を伸ばして見上げる。誰かが上から顔だけ出して覗き込んでいる。陽の光が逆光となって顔がよく見えない。けど、何となく、どこかで見覚えがあるような気がした。 「…平古場、くん?」 眩しい光を吸い込んだ金色の髪が靡くのを見たのが彼だと断定した理由。その顔はしっかりとは窺えないけれど彼の名前を半信半疑ながら紡げば唇が綺麗に弧を描いたように見えた。 「ちょっと待ってろよー」 そう言うや否や視界から一瞬、彼の姿が消える。驚きで目を丸くしているとすぐそばにかろやかに着地した。眩しい金色が私の前を流れていく。綺麗。思わずそう思ってしまうほどに。気付けば目を奪われていた。 初めて彼を見たとき、派手な髪の色に眉を顰めた。まだ名前も知りもしない中学一年。廊下で偶々すれ違ったにすぎないけどそれだけで印象を植えつけられた。その彼が平古場凛と言う名前だと知ったのはそれから数ヵ月後かのことだった。 「えー、?」 「…なに?」 「ボーっとしてどうかしたんばー」 腰を屈めて私の顔を覗きこむ。喋るのは初めてに等しいはずなのに妙に馴れ馴れしいなぁ、と思わないでもなかったけど一々突っ込むような内容でもない。ふるふると首を横に振って何でもないと示す。気になるのはそこじゃなくて、それよりも、 「名前、よく分かったね」 驚きを含めて苦笑する。私が彼の名前を知っているのと平古場くんが私の名前を知っているのとじゃ訳が違うって気付いてるのかな。新しいクラスになって一ヶ月。ようやく以前のクラスとは違う雰囲気に慣れてきた頃。私でもまだクラス全員の名前を覚えてないのに。授業をサボったり寝てばかりいる彼がクラス全員の名前を覚えているとはとても思えない。親しい子や席が近い子ならまだしも、同じクラス以外に共通点のない私の名前など知らないと思っていた。 「クラスメイトだろ。当たり前やっし」 考えるように視線を逸らしたかと思えば力強いその瞳はすぐに私を見つめ返してにっかり笑った。眩しい。そう思ってしまうほど爽やかな笑顔。これが、女の子達を惹きつける理由なんだろうか。ほんの少し前まで平古場くんが彼女と別れたことで女子生徒達が騒いでいたことを思い出す。それに便乗するように彼に告白をして玉砕した子が何人かいることも同時に噂としてよく流れている。ちょっとだけ彼に惹かれる子たちの気持ちが分かったような気がした。でも、きっとそれだけ。 「にしてもがサボるなんて意外やっし」 「ぬーが?」 「やー頭良いし優等生じゃん」 「別に、優等生じゃないばーよ」 「あい、ゆくしだろー」 勉強するのは嫌いじゃない。教科によって好き嫌いはあるけれどテストで平均点以下をとったことはない。周囲がそれを優等生や頭が良いと呼ぶことはあったけれど、平古場くんに言われるとそれは他の生徒とは違った不思議な響きを持つ。 「少なくとも平古場くんに知られるほどの優等生じゃない」 ねぇ、どうして貴方は知っているの。数多の生徒に紛れるようにして過ごしてきた。人前に立つことも目立つことも得意としない。初対面の人間には猫をかぶってしまう。ちょっとした人見知りを持つ。それが私だと自覚してる。だから、平古場くんの言葉はおかしすぎた。私は貴方を知っているけれど、貴方は私を知っている筈がない。じゃあ、どうして? 「やー、意外と鋭いな」 平古場くんの顔から笑みが消える。そうしてそれきり彼は黙ってしまった。作り出された無言の世界は私に何かを語ることを許さないかのようで、私もまた黙ってその場で待った。どんな言葉でもいい、彼が口を開くのを。 「?」 裕次郎の声に意識が引き戻される。偶々会った幼馴染とは帰る方向は同じだからと一緒に帰ることになった。裕次郎は私に合わせるために自転車からおりて歩いていた。歩く速さも気付けば私のペース。昔からさり気なく優しさを見せるからいつの間にかそれは当たり前のようになってしまう。平気だと笑う癖は見抜かれてばかりだけど同時に私も彼の嘘には聡いから結局はお互い様なのだ。 「…テニス部どう?」 「順調だぜ」 「そっか」 「あー、でも今日は凛の調子悪かったんに。木手に色々言われてたさァ」 決して嘘をつくのが上手いとは言えない幼馴染のいつもと変わらない態度に確信してしまう。じ、と裕次郎を見上げる私を余所に調子が悪いと言う部活仲間の様子を思い浮かべて心配している。そう、その表情が答えだった。 「…知らないんばーね。やっぱり」 思わず呟いた言葉を拾いあげた裕次郎は首を傾げて問う。私は首を横にふった。平古場くんのことは知っていた。それは全てこの幼馴染がいたから。中学に入って、裕次郎の口から聞く回数が増えた名前。『凛』なんて呼ぶから女の子だとばかり思っていたのに。その名前を持っていたのは金色の髪を靡かせていた。廊下ですれ違って眉を顰めることになった、その人で。その頃からずっと知ってた。 騒がれることを極端に嫌う私に気遣って裕次郎は校内で滅多なことがない限り話しかけるようなことはしなかった。私たちが幼馴染だと知っているのは紫乃くらい。テニス部のメンバーにも話してないと裕次郎は言っていたから。だから平古場くんが私を知っていることなどあり得なかったのに。 「けど珍しいな。がテニス部の話をするのは」 思ったことをそのまま口にしてみたといった感じのセリフは妙に的を得ていて裕次郎を見上げる。気付いてないのに鋭い。話すべきなのか、黙っておいた方がいいのか、まだ決めかねている最中だった。テニス部の部員の中でも裕次郎は特に平古場くんとは仲が良いみたいだから。裕次郎の話から出てくる名前の割合で平古場くんの名前は最も多い。ここで私が話さずともいずれ知ることになるだろう。明日には平古場くんが振られたと言う噂が校内を駆け巡っているに違いない。相手が私だと知られてはいなかったみたいだけど、その噂を知れば裕次郎は平古場くんの話を聞きにいくんだろう。裕次郎はこれでいて友達思いな奴だ。 「裕次郎のせいですっかり情が芽生えちゃったからね」 「そんじゃマネージャーに――」 「無理。バイトもあるし。それにテニス部なんて」 知名度が高すぎる部のマネージャーなんて自分の名を売るようなものだ。何事もなく平穏無事に過ごしたいと思うならそんな部関わりたくもない。そんなこと裕次郎はとっくに知ってるのに。見上げた瞳は冗談だと語っていた。 2008/09/19 → |