涼しげな風が吹きぬけた。肩までしかない髪は揺れ、顕になった首筋を撫でていく。ぞくり、と寒気にも似たものを感じてびくりとする。は思わずその場で立ち止まりきょろきょろと辺りを見渡した。
季節は、夏に傾こうとしている6月下旬。昼間の気温は徐々に上がり、通っている高校では先日衣替えが行われたばかりだ。朝晩はまだ少し冷えるが、それでも半袖で過ごすのに支障はない程度。おまけに梅雨が明けていない所為か、じめじめとした空気が辺りに漂っていて、吹き抜ける風もどこか湿っぽい。
けれど、今しがた通り過ぎたその風は涼しいと表現するほどにこの時期特有の湿っぽさを感じさせなかった。涼しいよりも冷たいと言った方が正しいかもしれない。例えるなら、冬の始まりを告げる木枯しに似ているような。一瞬、真冬の世界に放り込まれたような感覚に陥った。まだ少し寒いかもしれないと出かけ間際に引っ掛けてきた七分丈のパーカーを引き寄せる。忙しなく見回した辺りの様子には何ら異変を感じ取ることは出来ず、首を傾げながら歩き出す。けれども、何に警戒したのか分からないがの歩調は自然と早まっていた。

元はと言えば自分の気まぐれが始まりだった。風呂から上がり、髪を乾かしたところでテレビを見ながら寛いでいたのだが、唐突にアイスが食べたくなったのだ。夕飯を食べてからまだそう時間は経っていないというのに小腹が空いてしまった。そうしてパッと頭に浮かんだのがアイス。時期的にはまだ少し早いのではないかと思わないでもなかったが、食べたいと思ったらそれはもう止まらない。素早く着替えを済ませ財布と携帯を片手に家を出た。
数ヶ月前までなら、そんなに母親の制止の声や三つ下の弟の「俺のも!」何ていう声が聞こえてくるのだが、今はそれがない。今年の春、を除く家族三人は父方の実家へと引っ越した。父方の祖母の体調が思わしくないらしく、また祖父は既に他界している為に誰かが面倒を見る必要が出てきたのだ。急遽開かれた家族会議では最終的に父の実家に移って面倒を見ることに決まったのだが、ここで反論したのがだった。その時、は都内の高校に入学したばかりだった。この高校に入学する為に死に物狂いで試験勉強に励んできたのだ。漸く念願叶ったというのに転校させられるのはあんまりだ。父と母にそう訴え、話しに話し合った結果、一人残ることが決まったのだった。

携帯が七色に光ったかと思えば、お気に入りの曲が流れ出す。ボタンを押して携帯を耳元に当てれば数ヶ月前までは一緒に暮らしていた母の声が届いた。
「もしもし、?」
「うん、私だよ」
「一人になってから大分経ったけどどう?ちゃんと一人でやれてる?」
の瞳が横断歩道を挟んだ向こう側にコンビニを捉えた。信号が赤なのを確認して立ち止まる。受話器から聞こえる母の声は少し遠い。父方の実家はこちらとは違い緑が溢れる田舎だ。場所によっては電波が悪いところもあるのかもしれない。
「大丈夫。やれてるよ」
「そう?ならいいんだけど。あと、あんまり遅くに出歩いたりしちゃ駄目よ」
「分かってるよ」
見透かしたかのような母の声にどきりとする。上擦った声で返事をしながら、歩道の信号が青色に変わっていることに気付いて歩き出す。
「あと―――――を―――ね」
「え?なに?」
母の声が急に遠のいた。まるで何かに遮られたかのように聞こえなくなる。耳元にあてていた携帯を離し、画面を見つめる。通話中を知らせたままの画面を確認して再び耳にあてる。けれど、母の声が聞こえることはなかった。
「お母さん?」
風が吹いた。冷たくひやりとした、先ほどと同じ風。身を震わすような風に先ほど感じたのが寒気ではなく、悪寒だということに気付く。得体の知れない何かを感じては振り返ろうとする。と、目を刺激するほどの眩しい光を感じ取った。それが車のライトだと気付いた時にはその車体は目前にまで迫ってきていた。ブレーキ音が耳を劈く。間に合わないだろうと漠然と感じ、きつく、目を閉じた。



そうして世界は暗転した。




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2008,11,30