カタカタと打つキーボードの音がやけに大きく響いているような気がする。そんな錯覚を覚えてそれまで画面へと向けていた視線を上げれば、オフィス内はもぬけの殻。閑散としていて、いつの間にやら残っているのは私だけとなっていた。あれ、最後に帰って行ったのは誰だったんだろう。少し前のことを振り返ってみようとするものの、早く仕事を終わらせたいばかりに集中していて、先に切り上げて帰っていく人たちの挨拶にも生返事をしていた気がする。
 いつもならこの時間帯はまだ残って残業をしていく人も多いのに、早く切り上げる理由は週末だからか。明日が休みともなれば、今夜は羽目を外して飲める。明日に響く心配がないというのはそれだけで気分が解放されるというもの。気持ちは分からないでもない。しかし、その反面で明日が休みだからこそ今日は遅くまで頑張ってもいいか、という考えの人も出てくる。私が正にその一人である。私と同じような理由で遅くまで残る人が他にも数人いるのに、どうも今日は前者を選んだらしい。
 広いとは言えない室内にポツンと一人取り残されている私。その構図を客観的に考えて何とも寂しいなぁと思った。ついでに言うと(これは余計でもあるけど)金曜の夜に、一人オフィスに残って残業をしているなど寂しい女である。周りのようすを見て切り上げるべきだったかなと、画面の中のやりかけの資料に視線を落としながら思う。いや、でも後に伸ばして苦しむことになるのは結局私なんだし・・・。後々苦労するなら嫌なことは早めに済ませておく方がずっと気持ちが楽だ。そう思って定時を過ぎても仕事を中断しなかったのだから、ここまで来たらキリがつくところまではやっておかなければ気が済まない。
 うんと一つ背伸びをした。ビルの8階にあるこのオフィスからの眺めは割と綺麗だと思う。街のネオンがキラキラ煌めく。気分転換にと立ちあがり窓へと近づき、下を覗きこめばいつもよりも多くの人の姿。さすがは金曜の夜。彼ら・彼女らにとって夜はこれからなんだろう。飲み会へと繰り出すサラリーマンらしき人達を見つけては少し羨ましく思う。

「あれ、まだ残ってたのか?」

 不意にかけられた声に驚いて振り返れば入口に竹谷さんが立っていた。私と目が合うなりニッと笑って「お疲れさん」と言う。こんな時間帯になっても竹谷さんの笑顔は昼間と変わらず、明るく眩しい。好感が持てるその笑顔が、取引を成功させていることは私を始め、彼の仕事に関わる社員は皆知っている。

「お疲れ様です。今日、直帰でしたよね?どうかしました?」

 ちらりと壁に掛けられた掲示板を一瞥してみたら、竹谷さんの名前の今日の日付のところには確かにそう書いてある。定時の少し前にかかって来た彼からの電話でもその旨はちゃんと聞いている。何か問題でもあったのかと竹谷さんの出張先の会社の資料を確認しようとデスクに向かおうとする私を引き止めるかのように彼は顔の前で手をひらひらとさせる。

「あー違う違う。会社の前を通りかかったらまだ明かり点いてるの見えたからさ。いるかなと思って」
「そうなんですか。もう、私しか残ってないですけど」
「みたいだなぁ。・・・いつもこんな時間まで残ってんのか?」
「いえ、仕事が片付かない時だけですよ」

 休憩は終わり。竹谷さんが現れたことを区切りに改めて席に戻った私の隣に何故か竹谷さんが座る。当然、そこは彼の席ではない。まぁ、いまさらその席の人が現れることはないからとやかく言わないけれど、ちょっと寄り道しただけなら帰らないのかなと少し不思議に思う。ネクタイを緩めた竹谷さんは不意に鞄をあさりだした。早く仕事を再開しなきゃいけないのに、どうにも無視しきれないのは竹谷さんの人柄故だろう。
 私たちに決して無理なことは請求したりせず、そればかりか色々とフォローしてくれたり分からない事は聞く前に気付いて教えてくれたりと本当にさり気ない気配りをしてくれる。一見、そう言ったことは苦手そうに見えるのに。偏見かなと思うようになったのは竹谷さんの仕事のサポートを任されるようになってからすぐのこと。オフィス内でも人望が厚く、女子社員からも密かに人気のある彼の仕事に携われたことはとても幸運だったと思う。だから竹谷さんの負担になったり、迷惑をかけることがないようにと水面下で努力を続けてきたのに。それも水の泡。情けない部分を見られてしまった。


「あ、はい!」
「これ、お土産」
「わ、ありがとうございます!」

 ひょこ、と掌に載せられたのは某地域で有名なマスコット人形のストラップ。ああ、そういえば出張だったんだ。ストラップの紐の部分をつまみながらそんなことを思い出す。それにしても、ストラップかぁ。これはどうとらえたらいいのだろう。ぷらぷらと揺れるマスコットと竹谷さんを交互に見比べる。満足そうに笑う顔に、心中は穏やかじゃいられなくなるのに。携帯とかにつけちゃってもいいんだろうか。図々しいとか、竹谷さんは思わないだろうけどでもちょっと、気が引けるような・・・。

「こんな時間までありがとな!そのお詫びにしちゃ安っぽいけどさ」
「そんな、もったいないくらいですよ。残業してるのは私が仕事遅いからで、」
はよくやってくれてるよ。おかげで俺すっげー楽してるし」

 その言葉を聞けただけで私のこれまでの苦労は報われるというもの。頂いたストラップはとりあえず鞄の中に丁寧に仕舞い込んで、竹谷さんの言葉のおかげで気合いの入った私は勤しんでパソコンと向き合う。今ならどんな仕事を持ってこられたって笑顔でやりきる自信がある。

「その仕事、まだかかりそうか?」
「いえ、あと少しで終わると思いますけど」
「そうか。ちなみにこの後の予定は?」
「・・・それ一人残って残業してる女性に聞きます?」

 時折、無遠慮なことをさらっと聞いてくる。竹谷さんの場合、他意がないから許せるのだけど、ひくりと顔が引き攣ったのは仕方のないことだと思っていただきたい。大抵の場合、それは失礼に値するものだ。どうせ私は寂しい女ですよー、とそんな事投げやりに吐き捨てれば焦った顔の竹谷さんが視界の端に映った。

「あー悪い!つか、そう言うこと言ったかったんじゃなくてな、」
「いいですよ別に。事実ですし」
「だからそうじゃないって! ・・・仕事片付いたら飲みに行かないか?」

 思わず間抜けな顔をして竹谷さんを見た。まん丸に見開いた私の眸に映る竹谷さんはいつもの晴れやかな笑顔や、仕事している時の真剣な顔つきとはどこか違う、仕事場ではあまり見たことのない顔をしている。

「私と、ですか?」
「そうだ。と」
「・・・・・・私、と・・・」
「嫌か?」
「そんな滅相もない!どこにでもお供します!」

 ぶんぶんと首を振った。どうせ家に帰っても特に何かするわけでもない暇人。竹谷さんの誘いを断る理由なんてあるわけがない。それに会社の先輩の誘いを断ることも出来はしない。うちの会社の人はそう言ったことをとやかく言う人はいないけれど、やはり建前としては先輩や上司の誘いは予定のない限り断らないようにしている。

「あー、そのさ、仕事の付き合いとか会社の上下関係とか抜きに誘ってるんだけど」
「・・・え」
「だからな、個人的にを誘ってんの」

 若干色づいた頬にその顔はおよそ見たことのない表情。そこまで言われて意味を理解出来ないほど私は鈍くはない。ただ、まさかの展開に頭がついていかないだけ。だって、待って。そうしたらさっきのストラップの意味だって少しくらいそうだと思ってもいいのだろうか。仕事のお詫びだと言っていたけれどそれは上手い言い訳で、もしかしたら。


「あ、あの・・・えっと、仕事、とっとと終わらせますね!」

 え、と竹谷さんの声を聞きながらパソコンへ向き合い直してキーボートを叩く。返事としては不十分だろうけど、今は行動で示した方が早い気がする。何よりちゃんとした返事をするにはどうやら私も動揺してるみたい。こんな歳にもなって、参ったな。そんなこと思いながら浮かべた笑いは思っていたよりも嬉しさが勝っていた。
 ちらりと垣間見えた街のネオンが私たちを待っているようにキラキラと煌めいて見えた。





Twinkle Twinkle






日頃からお世話になっている沙希へ。感謝を込めて。