「・・・・・・

 ボソリ、と呟かれたその声は店内に流れる流行のメロディによって掻き消されて私の耳には届きはしなかった。ただ黙々と目の前の棚に顔を突きつけるように近づけて睨めっこしていた私は、自分をすっぽりと覆うように出来た影に気付いて顔を上げる。お客様だろうかと振り返ればすぐ後ろに中在家さんが立っていた。音も気配もないその登場の仕方にびくん、と肩を揺らしながらも、それも何度か続けば次第に慣れてくるもので、すぐに冷静さを取り戻して頭一つ分高い位置にあるその顔をじっと見上げた。

「どうかしたか?」

 耳を済ませ、微かに動く口元を凝視する。そうすることで理解することが出来た言葉に私は店員にあるまじき行動をしていたのかもしれないと思い、咄嗟に「すみません」と謝っていた。しかし謝って欲しかったわけじゃないのだろう、読みとりにくいその表情が、それでも言葉よりも雄弁にどうして謝るのか、と問うてくる。何かあると先ず「すみません」と口走ってしまうのは私の口癖のようなものだ。けれどそれを伝えようにも、まだまだ中在家さんとの交流が少ない私には上手く説明することは出来ず、ただふるふると首を振るしかなかった。

「いえ・・・・、これがどの棚に入れるのか分からなくって」

 腕に抱えていた数冊の本の中から一番上に置かれている本のタイトルが見えるようにして中在家さんに差し出す。受け取った本を一瞥すると中在家さんは私が見ていた棚の隣、その一番上の段の僅かに空いてる隙間へと本を差し入れた。くん、と首を持ち上げて一番上を見上げれば確かに持っていた本の内容と似た部類のものが集まっている。考える間もなく場所を探し当てた中在家さんに感嘆の息が漏れた。いつもながらお見事です、と内心で拍手まで送る。中々棚を覚えられない私にとって広い店内のほとんどを把握してるのではないかと言われる中在家さんは尊敬に値する人だ。無愛想という訳じゃないけれど感情の起伏が少ない中在家さんはパッと見で怖がられることが多くて、接客向きじゃないけれどその本に対する膨大な知識からこのお店の中では密かに重宝されている。
 そして、困っているといつも声をかけてくれる。その声に気付くことが出来なかった初めの頃こそ大袈裟に驚いていたけれど、今ではそれも受け入れられるようになってきた。見た目とは反して中在家さんはとても優しい。分からないことは聞けば教えてくれるし、何十冊も本を抱えて店内を歩いていれば無言で受け取って運んでくれる。もしかしたら私が危なっかしく見えただけかもしれないけど。
 
「他の場所は分かるか?」
「あ、はい。多分大丈夫だと思います。ありがとうございます」

 お礼を言ってないことに気付いて慌てて頭を下げれば言葉の代わりに大きくな掌が頭に乗せられた。その手には小さな切り傷が幾つか見られる。本屋の仕事は見た目以上に重労働で、不注意で紙で指を切るなんてよくあること。ずっと伸ばしていた爪が割れてしまったのはついこないだのことだった。私の掌はそれこそ傷だらけで、未熟な証拠と言ってもいい。色々なことを覚えて経験を重ねていけば、余裕も出てきて掌の傷の数も減っていくだろうと、そういえばこれも中在家さんから言われたことだった。

「分からなかったら誰でも構わないからから、遠慮なく聞くといい」

 ここで得た知識のほとんどが中在家さんから教えてもらったことばかり。私の指導係でもないのに、いつだって気にかけてくれて、困っていると手を貸してくれ、助言してくれた、とても優しい人。

「じゃあ、あのっ・・・中在家さんに聞いてもいいですか?」

 中在家さんみたいな店員になりたいんです。
 語尾は音をなくし、店内に流れる流行の曲によって掻き消される。もごもごと動かした口先だけでは意味を成してはくれないだろう。おまけに俯きがちだったし。おこがましいと思っても口にしてちゃんと伝えたかったのに、気持ちを中途半端にのせたまま言葉は落ちていく。
 顔は上げられそうもなく、慣れてしまえば苦になどならないこの無言が今はとても重く辛い。どうしよう、なんて誤魔化せばいいの。もう一度同じ言葉を言うなんてとてもじゃないけど無理そうで、だからといって上手い言い訳も見つかりそうにない。私もどちらかといえば口下手な人間なのに。
 抱え込んだ本に視線を落としたままおろおろとする私に、とんとんと落ち着かせるかのようなゆったりとしたリズムで頭を優しく叩かれる。目が合わせれなくなる私に、偶に中在家さんがとる行動。そうっと視線を上げれば眦を柔らかく細めた眼差しとかち合う。心なしかその口元は緩やかに弧を描いている気がした。







安寧、ことごとく




とてもお世話になっている、ひーちゃんへ。感謝の気持ちを込めて捧げます。