「伊作は、バカよ」

 切れた唇にそっとハンカチを押し当てればその顔が苦痛で歪められる。見るからに痛そうな傷に私が同じように顔を顰めれば、反するように伊作は無理にでも笑みを浮かべる。それは伊作の一種の癖のようなものだった。心配をかけまいと笑うんだろうけど、それが作られたものだと見破れないほど私は愚鈍でもないし、付き合いだって短くはない。そのことを伊作はいい加減気がつくべきだ。

「あんな不良程度、私一人でもどうにかなったのに」

 の家を継ぐものとして、護身術は幼い頃より叩き込まれてきたから、自分を害するモノへの対処の仕方など見についている。だから己の身を守ることくらいどうってことないのに。特に、幼い頃より私に仕えてきたこの幼なじみでもあり、私の執事でもある伊作はどこか抜けているといえばいいのか、運がないといえばいいのか、護衛という意味では少しばかり不安が残るので、私に対しての護身術への指導は他のお嬢様達と比べたら徹底されていたと思う。おかげで腕っ節には自信がついてしまった。あまりお転婆すぎてもはしたないといわれるので最近は控えているけれど、一度身に付けたことを忘れる私じゃない。

「そうだね。は確かに強いよ・・・けど、万が一何かあったらどうするの」

 私が差し出したハンカチで口元を抑えながら、よどみのない真っ直ぐな眼差しが私を射抜く。伊作は純粋すぎる。彼の瞳に映るモノ全ては優しく温かく、光で満ちているのだろう。私よりもずっと慈愛に満ちたその性格は執事としては向いてはいないと幼い頃よりよく言われていた。捨てるべきものは捨て、時には諦め、そして誰かを傷つける覚悟を持てと、守るべきものの為にその決意を固めろと指導されていたのを大きな扉の隙間からこっそりと覗いていたのを私は今でもよく覚えている。
 そうである必要はない、と告げたのは私だ。伊作は伊作のままでいい、そのまま私の側にいてくれればいいと願った。仕えるお嬢様の命令は執事にとっては絶対だと知る私の願いは今も継続されている。だからその分、私は自分を守る術を駆使すると決めていた。なのに伊作は、返り討ちにしようと前に進み出た私を庇うようにして絡んできた男達の前に立ちはだかったのだ。

「その身に傷の一つでもついてしまったら、僕は自分を許せなくなるよ」
「私が、そんなヘマをするとでも、」
「絶対とはいえないだろう?」

 地面へと座り込んでいたその姿勢を正した伊作の指先が、私の頬へと伸びる。そっと、優しく触れて撫でる指先はそのまま面積を広げて、ついには頬を包み込む。執事として手入れの行き届いている筈の指先は少しかさついていて、それが伊作らしい。

「執事にとってお嬢様は全てなんだよ」
「そんなこと知ってるわ」
お嬢様は・・・は僕にとっての全てなんだ」

 滑るように落ちていった伊作の手は途中で拳を作る。爪が皮膚に食い込むほど強く握られたそれはまるで伊作の意思の強さを表示しているかのよう。やがてそれを解いた伊作は方膝をついて、突っ立ったままの私の手をそっと両手で包み込む。その双眸はこれまでにないほど慈愛で満ちていて、とても柔らかく私へと注がれる。

「他でもない、僕が自分で仕えると決めた人なんだから」
「い、さく」
「だから、いい加減に守らせてよ?僕に、を」

 とくとくと心臓の音が聞こえる。小さかったその鼓動が次第に大きくなる。頼りなかったはずなのに、その分私が強くなればいいと思っていたのに。一本の芯が通ったその決意を覆すほどの権限が果たして私にあるのだろうか。だって、伊作は私が願ったそのままの姿で今その言葉を告げている。優しさに強かさを含んで、慈愛に覚悟を込めて。執事として望ましい姿がようやく形成されようとしている。それは何よりも喜ぶべきこと。近いと思っていた存在が急激に遠のいていくような、そんなのは錯覚に違いない。

「・・・だったら傷作らないようにしなさいよ」
「いっ!」
「心配かけないで。伊作のバカ」

 私を包むその手からすり抜けて、伊作が握っていたハンカチを奪い取って口元へ押し付けた。途端に痛みで歪んだ顔を見れば、それはいつもの伊作だ。落ち着きがなかった鼓動も緩やかに戻っていく。 でもまだ正常じゃないような気がするのは、そんなのは、気のせいだと思い込む。だって伊作は、私の大切な執事なんだから。

「はい。仰せのままに」

 それなのに、どうしてこんなにもそわそわとしてしまうの。









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