記憶の欠片をひとつひとつ拾い上げていくことは、苦痛と悲しみと、喜びと幸せと、総じてどちらも必ず付属としてついてくる。時に目を背けたくなるような出来事と対面して、思い出すことを放棄してしまいたいとすら考える。それくらい残酷な時代。でも、諦めようと思わなかったのは、そんな時代の中でも楽しいと思えるときがあって、荒みそうになる心を優しく、でもちょっとだけ雑に包み込んでくれる場所があったと知っているから。だから私は、折々に何の前触れもなくよみがえる過去を受け入れようと決めていた。

「なのに、何でアイツがそれを忘れてるのよ」
「・・・まぁ個人差もあるからね」

 ポチポチと言う音に比例して携帯を打つ庄左ヱ門の右手の動きは素早く、手慣れている。私はそれを視界の端に収めながら、私達から少し離れた場所で虎若や金吾達と騒いでいる団蔵を気付かれないようにじっと見つめていた。
 庄左ヱ門の言うとおり、個人差は激しく庄左ヱ門のように自分達の前世を全て覚えている人がいれば、私のように断片的にしか覚えておらず、何かの折にふと思い出す者もいるし、なに一つ覚えていない子だっている。とても広いこの世界で、またこうして同じ場所で出会えた、それだけでも神様という存在に感謝しなくてはならないのに、人というものは本当に欲深くて、今手にしているものだけでは満足できなくて、その先を、まだ望んでしまう。

「庄左ヱ門、冷静ね」
「それよりも、手止まってるよ」

 先ほどから全く動いていない私の手と、進むことのない夏休みの宿題。私のやる気を奪うのは少し離れたところで既に宿題など放棄してゲームを始めてしまっている団蔵に他ならない。
 団蔵も私と同じ、断片的にだけど過去を覚えている。その記憶は私よりもずっと確かだろう。話を聞いていれば、私の知らないことを彼は多く覚えていて、庄左ヱ門達と共有しているから。
 なのに、それなのに、私のことは覚えていないだなんて、そんなこと。

「あんまりだ」
「なにがあんまりだ?」
「忘れてくれちゃってることが」

 ああ、そのこと。項垂れる私に無情な庄左ヱ門の声が落ちてくる。それと一緒に団蔵の笑い声も私の耳に届いてきて、悔しいけれど、引き寄せられるように私はその声を追う。団蔵の笑顔に何度助けられてきたか知れない、その腕にどれだけ守られてきたか。まだまだ零れ落ちたものを拾いきれていない私の記憶の、それだけでも団蔵という存在はとても大きなものなのに、全てを思い出してしまったとき、果たして私は今のままを貫き通せるのだろうか。今だって、触れたくてたまらないのに。名前を呼んで、その瞳に私だけを映してほしいと思うのに。

「だったら試してみようか」
「・・・なにを」
「記憶はないかもしれないけど、団蔵だし、本能で覚えてるかも」

 ぱちん、と庄左ヱ門が携帯を閉じる。茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべたそれが、庄左ヱ門にとっては面白いことを企んだ時のそれと同じなのだと私はしっかりと覚えている。一体なにを思いついたのか、と思ったとき、携帯の着信音が部屋中に響き渡った。それは団蔵の携帯のメロディだ。持っていたコントローラーを金吾に渡して携帯を開く団蔵の様子を見つめていると、画面を見つめていたその瞳が、どうしてかいきなりこちらへと向けられた。

「庄左ヱ門、一体なにを」
、ちょっとごめん」

 訳が分からず問い質そうと、庄左ヱ門の方に向きなおした私に聞こえてきた小さな謝罪。目を見開いたのは正にその瞬間だった。庄左ヱ門の手が私の後頭部に回されて、テーブルを飛び越えて近づいてきた顔は、目と鼻の先にまで迫っていた。驚いて身を引く暇もなく近づいてくる顔に、彼の意図は分からずともなにをされようとしているのかだけは理解した。そのときだった。

「っ庄左!!!」

 唇が触れるまであとほんの少し。その瞬間に突如私の口を覆った大きな掌。それから私を後ろへと引き寄せる逞しい腕。後頭部に置かれていた庄左ヱ門の手はあっさりと離れ、私の背中は何かにぶつかる。でも、顔を見なくとも分かる。だって、触れたところから感じるこの温もりを私はとてもよく覚えている。

「・・・団、蔵」
「庄左、お前なにやろうとしてんだよ!コイツは俺の・・・!」
「俺の、なに?」

 その場に座り直した庄左ヱ門のあくまで冷静な態度に、私は彼がなにを試そうとしていたのか、少しだけ判った気がした。無意識だとしても、止めに入った団蔵の行動が、私を後ろから抱きしめるようにしっかりと掴まえる腕が、私に可能性という光を照らす。

は俺の、」

 庄左ヱ門に問い返されて、たった今しがたの自分の行いを振り返り困惑しているのが声から伝わる。思い出してくれたわけじゃないのだろう。でも、我に返ったにも関わらず私を離す気配がないのは、少しでも何かを感じ取ってくれているのだと、思ってしまってもいいんだよね、きっと。

「一番大事なことを忘れてるなんて団蔵らしいよ、全く」
「一番・・・大事・・・」
「今日のところは宿題も大目に見てあげるから、ちゃんと考えたら?」

 それまで勉強していた級友達に声をかけて、庄左ヱ門は立ち上がる。あれだけ大きな声を出したのだから、みんなも何かあったことくらい察したのだろう。私と団蔵の関係を覚えていた人たちは特に。それぞれ立ち上がってからかいや励ましの言葉と一緒に出て行く。一番最後に部屋を出て行く庄左ヱ門に私は視線だけで感謝を述べれば、にっこりと笑い返された。これは後で何か驕らされるかもしれない。でも、それも仕方ないかも。
 私と団蔵。二人取り残された部屋で、団蔵は動く気配がない。少し首を傾いで見上げた団蔵の顔は、まだ自分の行動についていけていないみたいだった。おまけに庄左ヱ門に言われた言葉が彼の頭を支配している。私は、そんな彼の腕にそっと触れた。

「団蔵・・・」
、俺・・・俺さ、なんかすっげー大事なこと忘れてる?」

 ようやく機能し始めた様子の団蔵は、私を一度離し、向かい合わせになってから、私の両肩を掴む。焦るような声は、先ほどの庄左ヱ門の言葉に何かを掴み始めたのだろう。、と私の名前を何の躊躇いもなく呼んでいるのだってその証拠。

「団蔵、ゆっくりでいいよ。どれだけ時間がかかってもいい。私、待つから」

 だから、私を抱きしめてくれるその腕の中が、私にとって何よりの拠り所であったことを、どうか思い出して。




ちっぽけな祈りの言葉と