心にぽっかりと穴があいている。そんな風に感じようになったのはいつのことか、はてと私は過去を振り返ってみたけれどいつしかそれは私の中で当たり前のように存在してしまっていたので、思い出すことはかなわなかった。すごくもやもやとする。虚無感にも似たそれはときに私の集中力を削ぐという厄介な代物で、最近の私の悩みの種である。授業に集中できなかったり、物思いにふけたりとそれはそれは私らしくない行為につながる。これでも優等生で通っているのに、その私が授業中や委員会の作業中に上の空なんて、本当にらしくない。ついて出た溜息すら、物珍しくうつって、それまでパソコンと睨めっこを続けていた潮江が顔を上げた。

「どうした?」
「ん、なんでもないよ」

 気がつけば、もう時計の短針は「九」をさしていた。随分と時間が経ってしまっていたらしい。ナイター用に点いていた外の明かりもいつの間にか消えていて、街のネオンだけが遠くに煌めく。後輩を一時間ほど前に帰らせた室内は驚くほど静かで、ジジジと蛍光灯の音だけが支配する。私も、潮江も作業に没頭してしまえば会話などそこには存在しないから時間の経過への意識も疎かになる。時計を見上げる私をならうようにパソコンに表示された時刻を確認した潮江が「もうこんな時間か」と呟くのを聞いて、ぐっと腕を持ち上げて伸びをした。作業は進んでいないくせに、一端にやりきった感を出すのはどうかと思ったけれど気分を変えるには丁度良い。ばれれば怒られてしまうだろうけど、有難いと思うべきなのかそこそこの信用は得ているので、出来上がった資料を手渡さない限りは自分から覗き込むことはしないのが潮江だった。
 でも、それを会計委員会に入った当初から当たり前だと思ってしまっていたことを思い出して羞恥に駆られる。なんて自意識過剰だったんだ私。実際潮江は、そんなことしなかったけどそれでも彼に認めてもらうまでには数ヶ月はかかったと思う。なのに、何であんなことを思ってしまったのか。なんだっけ、こういうのを既視感・・・デジャビュって言うんだっけ。

「今日は終わりだ。送ってやるから、帰るぞ」
「うん・・・って送る?!え、いいよ」
「バカタレこんな時間に一人で帰すわけにはいかんだろうが」

 パソコンの電源を落とし、帰り支度を始める潮江が放った言葉が脳の中で復唱される。椅子から立ち上がったままの私の中に、似たような言葉が、同じ声で流れ込んでくる気がした。「お前一人で向かわせるわけにはいかん!」切羽詰まったような声とその顔は、次いで聞こえてきた声に顔を歪ませる。

「大丈夫だよ、心配されるほど柔じゃないし」
「平気だよ、そんな心配されるほど危なくもない・・・し・・・」

 驚いた顔をしてこちらを振り返った潮江を見つめながら、私は自分の口から出た言葉と、脳の中で聞いた声が、全く同じだったことに意識の全てを持っていかれる。頭の中に流れたその声は何だったのか。今はもう何も聞こてこない、そのクリアになった脳内に、驚きと戸惑いを隠せない。あれは、何だったの。潮江に似たその声と、私と全く同じ声。私の声なのに、私じゃない誰かが発したような、でもどこかでしっくりとくるような、この感覚は何なのだろう。今、一瞬、私の中にぽっかり空いた穴が何かに満たされたような、そんな気がしたのは、勘違いだろうか。

「おい・・・お前」
「・・・?」
「あ、いや
「・・・・・・・・・」

 呼ばれた名前に、くしゃっと心臓を鷲掴みにされたような甘い痛みが襲う。名前を呼ばれたのは初めてなのに、どうしてそこに違和感も何も感じないのだろう。まるでそう呼ばれることが当たり前だと、私の心が知っているみたいだ。いつもはぞんざいに扱ってくるのに今ばかりは腫れ物を扱うかのようにその眼差しが注がれている。なに、その瞳。文次郎らしくない。―――もんじろう、らしく?

「・・・もんじ、ろう・・・?」
、お前もしかして」
「ねぇ、どうして?文次郎、なんて一度も呼んだことないのに、呼ぶことが当たり前みたいに感じる」
「っ・・・」
「私は、何かを忘れてる?」

 何かが引っかかる。私は、以前に潮江のことを文次郎、って呼んだことがあるような気がする。気がする、だけなんだろうか。だって、記憶喪失だったとか、そんなことに陥るような事態に遭ったこともなかったと思う。それすらも忘れてしまってるだけ?ずっと感じていた虚無感はもしかしてそこからくるのだろうか。そう言えば、私がそんな風に感じるようになったのは、会計委員会に入った、潮江に会った頃じゃなかっただろうか。
 ますます混乱する。でも忘れているのなら思い出したいと、そう思った私を強い腕が閉じ込めていた。ただでさえ思考が様々な方向に飛びきっていた私は事態についていくのに大分時間を要した。抱きしめられているのだと、分かった頃にはじわりじわりと心が満たされていく。ぽっかりと空いた穴を埋めるかのように。そのことに不思議さも感じなかった私は、やはり文次郎のことを知っていて、何か大事なことを忘れてしまっているのだろう。

「・・・もんじろ、」
「思い出さなくていい」
「なん・・・」
「忘れたままでかまわん」

 低く紡がれるその声が、私の鼓膜を震わせる。この声をよく知っていると告げている。なのに、切ないほどにその声は、思い出すことを良しとしていないのが伝わってくる。
懇願にも似たセリフは文次郎らしくない。彼を苦しめるものは何なのだろう。間違いなく私が関わっている。ならば尚更思い出したいのにその行為すら、文次郎を苦しめてしまう気がした。

「お前が、が、ここにいるのならそれで十分だ」




現し世も、ほころびゆけば