とんとんとん、と階段を上る音を聞いた気がして、まどろんでいた意識は急速に覚醒を始める。カーテンの僅かな隙間から零れてくる光の眩しさに瞼は刺激され目覚めを促される。寝ぼけ眼で窓を見つめれば光の先にぎらぎらと照りつける太陽が見えた。今日もきっと暑いのだろう。冷房が効いているおかげで外の熱気などこれっぽっちも感じることはないこの部屋は静寂を漂わせている。遠くから聞こえてくる蝉の大合唱だけが夏を象徴しているかのようだ。とんとん、とまた音を聞いた。さっきよりも近い。家には、私以外誰もいないはずだった。両親ではない。昨夜から体調の悪かった私を心配しながらも仕事には出かけていったから。
 起き上がろうとして、それが思ったよりも億劫だった。眠る前よりも体が重く感じて酷くダルい。室内はこんなにも涼しいのに、この体は熱の塊のように熱い。布団から抜け出し、フローリングに足をつけたところで部屋の戸が開かれた。

?お前何してんだよ。寝てなきゃだめだろ」
「え・・・、とめ?」

 手にしていたお盆はテーブルに置いて、留は私を布団へと押し戻す。雑なようで優しい手付きは熱が全ての感覚を奪っているかのような今でも感じれる。起き上がることは許してくれたらしいとめは私が何か聞くよりも先に私の前髪を掬い、顕になった額に自分の額をこつん、とあてた。その手も、額も熱い。「・・・とめ、熱い」すとんと落ちた言葉は「熱いのは俺じゃなくての方だ」という少し呆れた声に否定された。

「結構高いな。大丈夫か?」
「・・・うん」

 離れていった額を名残惜しくも見つめる私は頼りなさ気な子供にでも見えたのだろうか。ふっと唇を緩めたとめは幼子を宥めるように頭を撫でる。それは私が幼稚園のイトコにするときのそれと変わらない。家が隣で、幼なじみとはいってもとめは私よりも歳が二つ上。友や幼なじみと呼ぶよりも兄妹と言った方がしっくりとくるような育ち方をした。高校生と大学生となった今でもその延長線のままなのは私の甘えたな性格なのが起因なのか、とめの面倒見の良さが理由となっているのか。どちらにしてもとめの中の私はお隣の家の妹みたいな幼なじみ、に違いない。

「お粥、作ってきてやったぞ」
「・・・なんで、とめ、ここ、」
「おばさんに頼まれたんだよ。様子見に行ってやってくれってな」

 子供じゃない、のに。そんな風に膨らませた頬を見て私の心情を読みとったとめはおかしそうに喉でくつくつと笑い、持って来たお盆の上に乗っていたお碗とレンゲを手にする。ほかほかと湯気を上昇させているのはとめお手製の卵粥。普通のお粥じゃ味気ないと幼い頃の私が文句を言ったために加わった卵。それ以来、私が風邪を引くと必ず卵粥が出された。作るのはもちろんとめだ。看病をしてくれたのも。レンゲでお粥を掬い、それにふーふー、と息を吹きかける。何度かそれを繰り返したのち、そのレンゲは真っ直ぐ私の方へと差し出される。

「ほれ、あーん」
「・・・子供じゃない、もん」

 幼かった頃はよくやってもらった。私が猫舌だってとめは知っているから、息を吹きかけて冷ましてくれた。無意識のうちのその行動がとめの中での私が、昔のままだと言われているみたい。嬉しいような、でもなんだか素直に喜べないようなそんな中途半端な思いのままじっとレンゲと睨むように見詰め合えば「いいから、食べなきゃ治らないだろ」なんて言われてしまい、しぶしぶ結んだ口元を解放する。口元に運ばれたレンゲが傾けられ、喉に優しい温度に冷まされたお粥が流れ込んでくる。相変わらず私の好みをよく理解している味に、無意識に頬はとろんと落ちるように緩む。されるがままに黙々とお粥を口にしながら鈍い思考は問答をずっと繰り返す。どうして、こんなにしてくれるの。面倒見がいいから?妹のような存在だから?お母さんに頼まれたから?どれもきっと正解で、とめの性格を知っているからこそ私はそうやって考えるのに、じん、と胸がひしぐような思いを覚える。勝手すぎるけれど、それを私は望んでいないって、どうしたら伝えれるだろう。子どもっぽい私の言葉じゃ何を言ったってとめには本気として伝わらないのがもどかしい。今だってそう、子どもあつかいして欲しくないのに、否定はしなくともとめのその態度は私を子どもとして見つめている。全て食べきった私の頭をよしよしと撫でる掌の大きさにとめが男の人だと意識したのはもうかなり前なのに、何時までたってもとめの視界に私は女として映らない事実がたまらなく寂しい。

「よし、じゃあ次は薬だな」

 ぽけっととめを見つめていた私に次に差し出されたのは水の入ったグラスと、薬。反射的に渋面した私をとめは少し驚いたように見つめたあとでぷっと噴き出す。これ以上子ども扱いされたくないのに、正直な自分の感情が恨めしい。

、お前まだ薬苦手なのか?」
「き、嫌いなものは嫌いだもん」
「そうやって飲まなかったら風邪も治んないだろ」
「う・・・でも苦手なんだからしょうがないじゃん」
「我慢しろ。ガキじゃないんだから、な?」

 言い聞かせるようなとめの言葉にぷつんと何かが切れてしまった。どうして、私を子ども扱いばかりするとめがそれを言うの。一度だって私のこと同じ立場で見たことなんてないくせに。今だって言葉ではそう言ってるのに、私の顔を覗きこんで納得させるようなその笑顔は私を子どもあつかいしてる。

「とめが・・・私のこと、妹あつかいばっかするとめがいわないでっ!」

 自分が上げた声が脳を刺激して眩暈がする。くらくらと揺れそうになるのを堪えて涙で滲みそうな瞳でとめを睨めば、とめは面食らったような顔をしていた。それはそうだ。私はこれまでにとめに向かって怒鳴ったことなんて一度もないのだから。歪みそうになる顔を唇を噛み締めることで耐えながら少しずつ冷静になっていくとめの顔に、熱よりも恐怖心が身体を包みこみそうだった。決定的な何かを言われたら、私はもうこのまま堕ちてしまいそうだ。
 けれど、髪をがしがしと乱暴にかきまわしたあと、深く溜息をついたとめのとった行動に私は、意識がついていかなかった。

「煽ったお前が悪いからな。それと自分で飲まなかったのも」

 封が切られた粉薬、そして水を口に含んだと思えばその顔はあっという間に目の前に迫り、唇は塞がれていた。意識も、理解も追いつかない私は、とめの唇から流れ込んでくる薬の混じった水をそのまま受け入れてしまう。薬独特の苦さに眉がぎゅっと寄る。嫌いな味に飲み込むことを拒否したいのにそれを許してくれないように離れてはくれない唇に意識が朦朧とする。ただでさえ体は火照っているのに、これ以上ないくらいの熱が私の身体を持て余す。飛びかけた意識に、苦い水は私の意思とは関係なく喉の奥へと流れ込み、そのままごくり、と飲みこむ。そうしてようやく唇が離れていく。

「っけほ・・・」
「妹なんて思ってる奴にこんなことはしねぇよ」

 悪かったと言うように頬を撫でるとめの顔が赤いような気がするのは、まだ意識が朦朧としているせいだろうか。でも私の顔はもっと赤く、バラのような色をしているのだろう。とろとろと熱でとけてしまいそう。頭までもが熱に支配されて何も考えれなくなりそうだ。私の瞳までうつろになっていたのかとめは私の背を支えながら布団へと戻した。

「とめ、」
「寝とけ。目ェ冷めるまでついててやる。起きてからもずっと、な」

 とめの指先が前髪を梳くように撫でる。ベットに沈んだ体はそのまま睡眠を欲するように重たくなっていく気がする。瞼も、落ち始める。聞きたいことがまだ、いっぱいあるのに。最後の言葉の意味だって、今すぐ知りたいのに。なのにお預けだと言わんばかりに「おやすみ」と紡ぐとめの声がとても心地よくって、私の意識はそのままとろんと落ちていった。





薔薇色に染まる


日頃の感謝を込めて。こよちゃんに贈ります!