どっぷりと空が闇に浸かった頃になってようやく私の耳朶は一つの足音を捉える。同時に慣れ親しんだ気配を感じ取ってじっと息を殺す。やがてその足は今私がいる部屋の前に立ち止まる。今夜は満月で明るいから、その姿が障子越しに映る。障子が開かれるのとほぼ同時、私は立ち上がってそのままその姿に向かって飛び込んだ。

「兵助っ!」
「うわっ」

完全に気配を消していたから兵助が私に気付く筈もなく、二人してそのまま倒れ込む。受け身ととってくれた兵助のおかげでさすがに押し倒すような結果にはならなかったけど、入口で座り込むような形となる。驚く兵助を余所に私はその存在を確かめるかのように腕を兵助の背に回して抱きついた。

!?」
「・・・遅い」

その肩に額を乗せながら、ともすると聞こえないだろうというほど小さな声で呟く。それでも兵助は掬い取ってくれたらしく苦笑交じりで「ごめん」と返事が返って来た。宥めるように背を優しく叩かれる。

「夕方頃には戻れるって言ってたよね?」
「ちょっと手間取ったんだ」
「手間取った?」
「帰る途中に山賊に出くわしてさ」

そこでようやく私は微かに血の臭いを感じ取る。気付いた途端に鼻の奥をツンと刺激するかのように濃くなった気配に少し体を離して兵助を見上げた。見たところ、兵助に怪我はないようだ。だからそれは出くわしたという山賊のものか。脳裏に過ぎった予測に思わず眉を寄せてしまう。不安げに見上げた私に兵助は笑う。敏感に血の臭いを嗅ぎ取った私の心配を消し去るように。

「少し仕掛けて適当に撒いてきただけだよ」
「・・・・・・学園長先生が嫌いになりそう」
「こればっかりは仕方ないだろ。今回は偶々俺に白羽の矢が当たっただけだ」

学園長のお使いは下級生に回されることがほとんどで、それが上級生に回されるということはそれなりに危険だったり重要な内容のものが多い。今回の場合、学園長の知り合いに手紙を届けるだけと言ういたって単純なお使いだった。けれどその距離が遠く下級生では一日で帰ってくるのは無理だと判断して上級生である兵助に回されたのだ。それでも夕方には帰ってくると出掛ける時言っていたのに。陽が暮れても帰って来ない兵助に何かあったのかと気が気でなかった。だから兵助の部屋で待っていた。

「けど遅くなったのはそれだけの理由じゃないんだ」

兵助が口元を緩ませたのを感じ取ってその顔を不思議に思いながら見上げたら、目が合う。目許を和らげた兵助が懐から何かを取り出した。兵助の手に収まる程度の大きさで、差し出された物を見て私は目を見開いた。藤の花の、可愛らしい簪。淡い紫色は派手すぎず、垂れ飾りが花弁の形をしていてとても綺麗だった。

「帰りに通りかかった町の店で見かけたんだ」
「私に?」
「うん。今日のお詫びと、それとに似合うと思ったから」

少し照れたように笑う兵助は私の髪に簪をあてて「ん、やっぱ似合ってる」なんて言うから私まで照れてしまう。恥ずかしさで顔を俯かせる私の耳元に唇を寄せて兵助は私の名前を呼ぶ。卑怯だと思いながら渋々顔を上げる。私の腕を掴んで、簪を握らせた兵助はそのまま私を抱き寄せた。触れた温もりにちらつく微かな血の臭いはどうしても拭いされないけれど、それでもこの腕の中にいるだけで安心して不安だってどこかに飛ばされてしまう。

「今日のことは、ほんとごめんな」
「もういい。学園長先生のお使いは断れないし」
「次の休みにちゃんと埋め合わせするよ」
「・・・・・・うん」

そうだなぁ、何処かに出かけようか。思案するような声を聞きながら緩む口を抑えられなかった。別に兵助と一緒だったらどこでもいいのに。

「町にでも行こうか?」
「別に無理に出かけなくてもいいよ」

部屋で過ごすのだって悪くはない。三郎や竹谷達の邪魔が入る可能性も高いけれど、貴重な休みだから疲れを癒す意味も込めて学園内で大人しくしていた方がいいのかもしれないとも思う。

「そうだけど、もともと今日は出掛ける予定だっただろ」
「まぁ、そうだけど」
「それに、その簪つけてるところ見たいし」

絶対可愛いと思う。私の顔を覗きこむようにしてそう言った兵助の顔は赤い。そういう私もじわじわと熱が顔に集まってくるのを感じずにはいられなかった。兵助以上に赤い顔をしている自信があるかもしれない。

「・・・けど、やっぱり誰にも見せたくはないな」

鼻先がぶつかる。その近さに今更に驚きながら囁くように名前を呼ばれた直後には唇はふさがれていた。その瞬間に見えた顔は拗ねているようなそんな表情で。照れ隠しなのかなぁと幸せを噛み締めながら、ぼんやりとそんなことを思った。




温もりに酔い痴れる



相互記念に「ivory flower」の葉月様に捧げます。
久々知で甘夢とのリクエストだったのですが、これを人はほのぼのと呼ぶのかもしれません。
「甘いって何ですか?」と執筆中何度も自問自答してました。読む分には良いんですけど書くとなるとどうにも甘いお話は苦手で。こんなのでよろしかったら貰ってやってください!
大変遅くなってしまいすみませんでした!今後もどうぞよろしくお願いします!