雨が降るな。どんよりとした鈍色の雲が狭まった視界の端に映ってそんなことを考える。いつも以上に遠く離れた空は少しずつ鈍色に侵食されようとしている。少し湿った空気だって雨が降る前兆のようなものだ。このままじゃ降られる。雨に濡れるのは嫌だなぁと呑気にもそう思う。



落ちるようにすとんと聞こえた声に上を見上げる。穴の中を覗き込むようにひょっこりと顔を見せたのはおそらく・・・いや絶対にこの穴を掘っただろう張本人、綾部喜八郎。瞳を僅かに見開いてパチパチとさせている様子はこの穴の中からでも容易に見て取れた。そのままの顔で私の名をもう一度呼ぶ。それも心底不思議そうに。

「どうしてが落ちてるの?」
「落ちたから落ちてるのよ」

保健委員会に所属している私は嬉しくはないけれど例に漏れず人よりも少し、不運らしい。言っておくけれどほんの少し、だ。伊作先輩程ではない。たまに、ごくたまーにこうして綾部の掘った穴に落ちる程度である。そして今日も委員会の当番の為に保健室に向かう途中うっかり落ちてしまった。
私の答えに綾部はなにやら少し考えるような素振りを見せる。人とは違った軸の時間を生きているのだろうかと思うほど自分のペースを崩さない綾部との会話を成立させるには大人しくこの男が喋るのを待つほかない。何度か穴に落ちた事によりそれを学んだ私は冷たい土の上に座り込んだままに上を見上げる。

「それはの為に掘った穴じゃないよ」

少し待って私を見た綾部はやっぱり不思議だと言わんばかりの顔をしていた。
その顔をしたいのはこっちの方だ。

「私だって落ちたくて落ちてるわけじゃないんだけど」
「でもはいつも落ちるよね」

目印はちゃんとつけてるのに。付け足すような一言に出かかった反論の言葉がぐっと押し込まれる。不思議ちゃんな癖に言っていることが偶に正論だから腹が立つんだ。綾部の言う通り、この場合その目印に気づく事が出来なかった私が悪い。気付いた時には遅かった、ってパターンも多々あるのだけど。どっちにしろ忍者になろうとしているものとして私には注意力と言うものが足りていないのは確かだった。
競合地域だから穴を掘るのは綾部の自由だ。それに目印までつけているのだから文句はあまり言えない。反論の言葉を溜息にかえて吐き出した私は綾部のその後ろに見える空が鈍色一色に染まっていることにようやく気付いた。ああ、きっと今にも雨が降り出すに違いない。そろそろ此処から出してもらおうと腕を伸ばそうとする。綾部の良いところはちゃんと引っ張り上げてくれるところだ。

「あやべ   
「どうしては落ちるのに先輩は落ちてくれないんだろうね」

私の、綾部を呼ぶ声は穴の中へと吸い込まれる。変わりにこの狭い空間に響くのはどこか気落ちした綾部の声。それだけで私は何も言えなくなる。感情の起伏が分かりにくい綾部のその声は思っている以上に落胆しているに違いないのだから。だからずきりと痛んだ胸には気付かない振りをした。

「先輩は落ちないよ」
「なぜ?」
「先輩の実技の成績はくの一教室じゃ有名なくらいに優秀だもの」

だから落とし穴に落ちるなんてドジはしないだろう。見上げた先の綾部はぐっと眉を寄せて珍しくも難しい顔をしている。宙を漂う綾部の視線と意識は暫くはこちらに戻ってこないだろう。その間に浮かぶのはきっと先輩のこと。やだな。自分で言っておいてその言葉に後悔してしまう。もやもやとした感情は立ち込めるあの鈍色の雲のように私の中で広がっていく。

「じゃあどうしたら落ちてくれると思う?」
「・・・・・・目印をなくすくらいしないと先輩は落ちないんじゃない?」
「それは出来ないよ」

綾部にして間を置かずして返事が返ってきて私はその顔をもっとよく見ようとして腰を浮かして膝立ちの状態になる。まさかきっぱり拒否されるとは思わなかったけれど、よくよく考えれば確かに先輩が落ちやすくはなるだろうけど、それでは下級生の子達の落ちる確率がぐっと高くなってしまうではないか。考えの及ばない自分に落ち込みそうになれば、何とも意外な言葉が私の下に降ってきた。

「だって、そんなことしたら絶対にが落ちてしまうじゃない」

その表情はいつも通りで。だから私はまたもや何も言えなくなった。ああ、綾部。そんな優しさはいらないよ。私の思いはきっと一生綾部には伝わらない。
そうして私の心を表すかのようにどんよりした鈍色の空からポツリと大きな雨粒が落ちてきた。




憂鬱に堕ちる