「・・・・・・寒い」

何度同じことを呟いただろうか。言葉と共に白い息が吐き出され、それは上へとあがりながら静かに空気と同化していく。茜色だった空はいつの間にか見事なまでに深い闇の色へと変貌していた。風が丸裸の木々を揺らし、枯れ落ちた葉がからからと音を立てる。その寂しくも虚しい音がよく響く。それと同時に身を凍らせるような体感温度に腕を擦った。
時折思い出したようにずきりと痛む右の足首だけが熱を持っていた。腕を伸ばしその足首に触れては具合を確かめる。足を捻らせるなんて何ともマヌケなことをしでかしたものだと己自身に呆れたくなる。それでも骨が折れていなかっただけマシだと思うべきなのか。
捻り方が酷かったのか立ち上がろうとしたら鈍い痛みに襲われた。思わず上がった苦痛の声を押し込めながら、木の幹に手をつき何とか立ち上がってみたがどうにも歩くことは望めそうになかった。普通の道なら片足だけで進むことも可能だけど、生憎と今私が居るのは裏々山の中。どこに誰が仕掛けた罠があるか分かったもんじゃない。罠に気付けない、なんて失態はしないだろうがそれを片足で掻い潜るのは些か骨が折れる作業だった。
忍術学園は常日頃から鍛錬に励む生徒が存在している。その生徒達の大半がこの裏々山を修行の場として使っているから待っていれば誰かしら来るだろうと踏んで、歩く事を諦めたのが確か一刻程前だったと思う。
荒んだ風が吹く。その度にぶるりと身を震わせて縮こまる。季節は真冬で只でさえ寒いのに陽が落ちた所為で辺りの気温は一気に冷え込んだ。火種を持ってきていないので暖を取ることも出来ない。すん、と鼻を啜った。

ざくざくと落ち葉を踏む音を耳が捉えた。膝に埋めていた顔を上げ、音のする方向を見つめる。誰かしら来るだろうと思っていたが、よくよく考えればこの寒い中わざわざ裏々山にまで足を運ぶ生徒は少ないのかもしれない。そう思うとこの足音は一体誰の者だろうか。ぱきりと小枝を踏む音と共に姿を見せたのは意外な人物だった。

「・・・見つけた」
「伊作・・・?」

私を見て一度目を丸くした伊作は安堵するようにゆるやかな笑みを浮かべた。私はと言うとまさか現れるのが伊作だとは思ってもいなかったので呆然と彼を見つめるしかなかった。伊作はゆっくり歩みを進めて私の目の前に来たところで腰を屈めた。

「どこか怪我でもしたのかい?」
「あ、うん。足捻っちゃって」
「ちょっと見せてもらうよ」

伊作の手がそっと足首に触れられる。じわりと感じた痛みに顔を顰めるとそれを見た伊作がごめん、と苦笑しながら謝る。

「捻挫だね。それもちょっと酷いかもしれない」
「動かさない方がいいと思って」
「うん。それは正解だけど・・・・・・」
「なに?」

気難しそうに眉を寄せて口篭る伊作に首を傾げる。困っているような顔なら幾つだって見てきたけれど伊作の、こういう表情はどちらかと言えば珍しい。私を見て、伊作が小さな溜息をつく。そうしてその手が足首から離れ私の手に触れた。

「冷たい。これじゃあ風邪を引いちゃうよ」
「うっ」
も保健委員なんだからそれくらい分かるだろう」
「そうだけど」
「もし私が来なかったらどうするつもりだったんだい?」

普段は不運な所為で頼りなく見られる伊作は、怪我や病気が関係してくるとまるで別人のように変わって、見事なまでに委員長っぷりを発揮してくれる。それを長いこと保健委員を務めてきている私は知っている。だから「ごめんなさい」と謝るしか出来なかった私は、そのまま顔を俯かせた。すぐ近くで伊作が二度目の溜息をついたのが聞こえた。

「説教はまた後にしようか。とりあえず学園に戻ろう」

このまま此処に居たら本当に風邪を引いてしまうよ。そう諭すような声に顔を上げればいつものように困った笑みの伊作がいた。

「ほら」

屈んだままに背を向けられ、意味を理解したところで少し戸惑った。けれど肩越しに顔をこちらに向けた伊作が優しく笑って急かすから遠慮気味にその背におぶさった。

「重いでしょ」
「そんなことないよ」

何かに躓いたり足を滑らせたりといつものような不運に見舞われることはなく、着実に学園へと歩く姿に静かに瞬きをした。軟弱そうに見えるのにそれでも伊作はやっぱり六年生なんだ。思っていたよりも広く逞しい背中は温かく、じわりじわりとその熱が伝わってくる。柔らかい伊作の髪が歩く度に揺れて頬を擽った。それと一緒にかぎ慣れた薬のにおいが微かに香って何故だか安心してしまった。

「温っかい」

その温もりを逃がしてしまわないようにと首に回した腕の力を少しだけ込めた。苦しいよ、と少し焦った声に笑いが漏れながら遠くに見えた学園に目を細めた。もう少しだけこのままがいいなぁ、そう呟きそうになった口を慌てて閉じた。




密やかな夜