夢から醒めるかのように回想が終わる。信号待ちをしている時間にふと回顧するようになったのはいつ頃からだっただろう。気がつけば周囲で足を止めていたはずのサラリーマンやフリーターらしき人たちが一斉に同じ方向へと向かって歩き出す。 急かされるようにその流れに乗った。肩に提げたバッグを持ち直していると手にしていた傘が揺れて粒が落ちてきた。 ここ数日、雨は降り続いていた。一時的に止むときもあるけれどその空は一向に晴れることはなく灰色の雲に覆われたまま。そのせいでどこに出かけるにも傘が手放せなくなっている。 頭上にかざされている傘が雨を凌いでくれる。けれどスカートから伸びている足元には雨粒が当たり、その感触が気持ち悪い。歩くたびにきゅっきゅっ、と音が鳴る。お気に入りのミュールには随分と水分が含まれてしまっているんだろう。特別誰かと会う約束はしていなかったから、スニーカーでも履いてくればよかった。今更そんなことを嘆いても遅いと分かりながらもぼやいてしまう。 狭まれた視界にチカチカと点滅する青が見えた。信号が赤に変わる合図。歩きにくいせいかいつもよりも縮まる歩幅は随分と歩く速度を落としていたらしい。早く渡れと言うように光るそれが雨のせいか揺れてみえる。一緒に横断歩道を渡っていた人たちは既に渡り終えていたらしく取り残されていたのは私だけだった。かと言って急がなければ、と慌てることはしなかった。赤に変わっても多少の猶予はある。車道用の信号が青になる前には渡りきれてしまうだろうと長年の経験で知っている。 赤へと変わろうとする信号を避けるように傘を少しだけ前へと傾けた。視界は更に狭まって腰より下辺りの景色しか見えない。そうすることで何故かホッとしながら歩いていると目前の方からこちへと向かってくる人がいた。無謀だなと他人事のように思う。全力で走ったとしても今からじゃ間に合わないに決まってる。渡る途中で走り出す車からクラクションを鳴らされる羽目になるだろう。下手をすれば事故にもつながる。そんなバカなことをする人はどんな人だろうと、単なる好奇心で傾けていた傘を持ち直そうとしたその時、傘を持っている方の腕を掴まれた。 「ちょっ・・・!」 赤に変わったにも関わらずこちらへと駆けてきたその人だ。力強く掴まれ、その人は来た道を引き返すようにして走り出す。傘が斜めに傾き、その役割が失われる。上空から落ちる大きな雨粒が私へと容赦なく叩きつけられた。そして、視界が晴れたことによって腕を掴むその人の顔をはっきりと確認した。 「・・・慎吾?」 「お前死ぬ気?あのペースじゃ確実に轢かれてたぜ」 白とコンクリートの縞模様から抜け出すと足が止まる。何故か傘を持たずにいる慎吾を自分の傘へと入れる。彼のその髪からぽたりと落ちる雫を見ながら水も滴る何とか、と言う言葉を思い出す。会うのは四ヶ月振り(くらいだった気がする)だったけれど、彼は相変わらず恵まれたその容姿をありありと私に見せつけた。 差し出すようにして慎吾の上に差せば、彼はその私の腕を引っ張っる。ミュールと素足の間に入り込んだ水がきゅっと音と立てる。傘はちょうど私と慎吾の上空にかざされた。 「が濡れたら意味ないだろ」 「別に。もう濡れちゃったし。誰かさんのせいで」 「そりゃお前がのんびり歩いてたせいだろ。それに俺の方は元々濡れてたしな」 「・・・・・・傘持ってないの?」 「大学出るときは止んでたから忘れたんだよ」 嘘だ。そんな言葉が口を突いて出そうになる。慎吾は意外とマメでしっかりしている。いくら雨が止んでいたからといって今にも降りだしそうな空を見て傘を忘れることはしないだろう。面倒だったからと言う理由も考えられるけれど、そうではないような気がした。 「忘れたんじゃなくてわざと置いてきたんじゃないの?」 自然と唇が持ち上がり、揶揄するかのような口調に変わる。意識とは正反対の位置で蠢く感情が今の私の全てを持っていく。考察力に関しては実のところ慎吾よりも上かもしれないと自負している。相変わらず良い勘してるな、と零す辺り私のそれは決して自意識過剰ではなかったらしい。 「振られたの?」 「つーよりは喧嘩のが近いような気がする」 「それは災難だったね。でも自業自得のような気がするんだけど」 「それも勘?」 「勘」 即答すれば慎吾は参ったと言わんばかりにからりと笑った。どうやら勘は当たったらしい。けれど勘とは少し違うと私はこっそりと思う。高校三年間、慎吾の側で私はその恋愛事情を全て見てきた。これはそこから来るのだと言えば慎吾はどう反応するだろうか。 「もし本命なら大切にしなきゃダメだよ」 乾いた笑みの中に紛れた寂しげな顔に今の慎吾にとって本当に特別な子なんだろうと教えられる。そうして新たな世界を見つけていく慎吾がとても羨ましく、憎く思える。私の世界は広がることもなければ狭められることもなく、ずっと一定のまま。新しい生活に馴染んだ今でさえ。変化を望んでいるのに、それを懼れているのか誰にも手を伸ばそうとしない。 「さっき何考えてた?」 「さっき?」 「横断歩道渡ってるときだよ」 「ああ、」 ちらりと振り返る。 するとちょうど青色だった信号がチカチカと点滅していた。 「夏が来たなぁって思って」 「夏?今日思いっきり雨なんですけど」 「でも去年の夏の始まりは雨だったよ。それに終わりも」 「・・・・・・・・・」 「短い夏だったよね」 ぷつりと会話が途切れる。押し黙るところを見れば慎吾も去年の夏を思い出しているんだろう。決して忘れることの出来ない高校最後の夏。けれど慎吾はすぐにこちらを強い瞳で見つめ返してきた。迷いも戸惑いも後悔もない双眸が私を責めるかの如く。見透かされているみたいで急いで視線をずらした。あの夏を終わったことだと思いだせる慎吾と違って私はまだ囚われたままなんだ。 「。今だから言うけど」 「なに」 「ちょっとだけ別れたことに後悔してんだぜ」 傘が雨を弾く音も、背後から聞こえる車の走る音も全てが消え失せたかのように、慎吾の声だけが私の中で響く。一つの傘に二人で入っている所為でその距離は近くて。そんな距離で言われた言葉は心神に大きな衝撃を与えた。何てことをサラッと言ってくれるんだコイツは。 「バカ。今更言っても遅いのよ」 「やり直すっててもあるぜ?」 「冗談。彼女居るんでしょ?そんな相手お断りです」 するとタイミングよく慎吾の携帯が愉快な音を立てて鳴り出す。悪い、と言って電話に出るけれど距離が近いために相手の声まえしっかりとこちらにまで届いてくる。少し高めの女性の声。喧嘩をしてしまったらしい彼女だろう。数分と経たずに電話を切った慎吾は溜息を吐きながら携帯をしまった。 「行くの?」 「ああ」 「そ、本当に好きなんだね」 二人の間に差していた傘を自分の方へと引き戻す。 触れられる程近かった距離も遠のき、私は彼女の元へと向かう慎吾を見送る体勢になる。 「じゃあね。彼女と仲良くしなよ」 お前も早く彼氏作れよ、どうせ今居ないんだろ、そう言ってにやりと笑い雨の中を歩き出してしまうその背中に大きなお世話だと大声で投げつけた。 雨に視界を阻まれ見えなくなっていくその背中に思わず手を伸ばしてしまいそうになった。こんなんじゃ、まだ当分は彼氏なんて出来そうにない。
君をわすれる呪文をください あの夏と共に、私は彼に囚われたまま。 |