一言でいえば窓から見えた桜の花弁が舞う姿に目を奪われたからだった。そろそろ散り始めるそれを見つけて、寂しさと切なさに似た感情が駆け抜ける。だから、前方から誰かが歩いてきていることに全く気付かなかった。両手でしっかりと抱えたクラス分のノートが手元から零れ落ちて行く。ぶつかった衝撃で後ろに倒れて尻餅をついた。派手な音を立てて落ちたノートに混じって「…ってぇ!」と悪態をつく声が聞こえて何をするよりも先ずその相手を見た。

「り、利央先輩…!」

どことなく聞き覚えがあった声と、私の視界を真っ先に埋めた明るいその髪の色が利央先輩だと認識させる。と言うよりも分からなかったらある種失礼に値するかもしれない相手だった。これでも中等部では野球部のマネージャーをやっていて二年間もお世話になり世話をしてきた相手だ(世話になったかは微妙だけど)。何とも柄の悪そうな声が一辺して「?」と疑問が混じったものになる。

「…お久しぶりです」
「ほんとに」
「えーっと…お元気そうで何よりです」
「その前に言うことあんだろォ」
「スミマセン…って先輩も余所見してるからぶつかるですよ!」

お互いに座ったまま言い合うこと数分。無駄だと気付いたのは私が先で勝手に会話を終了させて散らばったノートを拾い始めた。一人黙々と集めるそれに別の手が加わったのは少し経ってからで仕方ねぇなぁ、と利央先輩がぼやく。そこにどんな意味が含められているのか知らないけれど、こんな面倒なことには付き合わずにさっさと行ってしまえばよかったのに。なんて思う私は我がままなんだろうか。

利央先輩は黙々とノートを拾っていく。無口とはかけ離れた先輩が黙ってしまうとどうしていいのか分からない。突如訪れた沈黙は居心地がいいとは言えず私はノート集めだけに集中を注いだ。男の子にしては白くて長い指先がちらついたけれど必死に視界から消し去る。柔らかく暖かい風が窓から流れ込んでくるけれどちっとも気分は落ち着かず心を乱すかのように頬を撫でていく。春は、切なさを届けに来る。刻み付けた願いが儚く散る姿はまさに窓から見える桜の花弁と同化していて思わず何もかも置き去りにしてそれだけに思考を浸らせてしまう。未だ捨てきることができず胸の奥底に潜んでいた感情がざわざわと騒ぎ始めているのを感じ取っていた。

「ありがとうございました」

集めたノートを先輩からひったくるようにして奪って自分が積み重ねたそれに加えた。少しずつ広がっていく違和感に気付く前に逃げてしまおうとする私は卑怯と呼ばれるかもしれないけれど、そうでもしないと取り返しのつかないことになるような気がした。両手で抱えたそれが先ほどよりもずっと重く感じるのは単なる気のせいなのだろうか。腕にかかる負担を何ともないふりをして先輩の横を抜けようとすれば昔よりもずっと逞しくなった腕があっさりと引き止める。

「先輩、私これでも急いでるんですけど」
「なんで帰宅部なんだよ」
「………」
「なぁ、何で」

深く沈んだ双眸が私をこの場に縛り付ける。わざとそんな風に私を見るのかと思ったけれどそこまで器用な人じゃないのだとすぐに思い当たる。だったらどうしてそんなセリフが先輩の口から漏れたのか。利央先輩の考え方は独特で私なんかでは及ばない。それでも理由が知りたくて真っ直ぐ見つめ返した。それはとても勇気がいることだったけれど知らなきゃ永遠にこの疑問は私に付き纏うだろうという予感があった。
散った花弁が一年後にはまた綺麗に花を咲かせるのと同じで、私の想いも堂々巡りだ。風に乗って運ばれてくる薄く色付いた花弁が積み重なったノートの一番上にひらりと落ちる。何の悪戯だろうか。結局、先輩の思考を読み取れる筈もなく視線を花弁に落とした。

「こんな気持ちのままじゃ迷惑かけますから」

恋愛感情は綺麗だとは言い難い。部員達の野球に懸ける思いと、それを支える先輩マネ達の真っ直ぐな思いを間近で見た私はそこに踏み込む資格など与えられていなかったことにようやく気付いたのだ。浅薄な感情だけで入部した私がそこに居座ることが許されたのは全くの無知だったから。だから許されていただけ。全てを知ってしまった私は承知の上でまた足を踏み入れるなんて愚かな行為はできない。

「散って綺麗に消えてしまってるならいいんです」
「……
「でも私の気持ちはまだ枯れてませんから」

この気持ちが枯れる日がくるなんてこと考えたくもない。何度散ってしまっても先輩がいる限り私の想いはこの中で咲き続けるのだから。

「まだ利央先輩のことが好きなんです」

だから帰宅部なんですよ。微笑むことが出来たのは自分の気持ちを改めて確認したからだろうか。校舎が違って会うことが叶わなかった一年間の方が楽だったと言えばそうかもしれないけれど、それは逆に認めてしまいたくないと思う一方で私の気持ちをより一層強くしていた。認めてしまえばほら、こんなにも清々しい。目を真ん丸に開いて驚きを隠さない先輩の様子がおかしくて笑いが零れる。

「じゃあ」
「はい?」
「オレがのこと好きだって言ったらお前は戻ってくるワケ?」

歩を進めて近づく先輩を黙って見つめる。息を呑む間もなく触れていった唇が示す意味が瞬時に理解できずに呆然と立ち尽くしていると乱暴に私の腕からノートが奪われた。その拍子に花弁がひらりと音もなく床に落ちていった。

「……先輩」
「何だよ!」
「どういう意味ですか」
「どうもこうもそういう意味だよ!」

身を翻して足早に行ってしまう。素早い行動だったけれどその耳元が真っ赤だったのは見逃さなかった。それが私に今起こったことが全て事実なのだと伝えていた。暫くその場から動けなかったけれど、運ぶ先も知らないことを思い出して慌ててその背中を追いかけた。




どうかる前に折って





2008/03/20  ※相互記念にひいなちゃんに捧げます!