夏場にしては比較的涼やかな風が吹き抜けて、なんとなく眠るには惜しい夜だと思った。まあるいお月様が闇のように深い色をした空にぽわんと浮かび上がり、とても明るい夜だった。忍ぶには相応しくないけれど、だからなのか今日は静かだ。いつもなら自主練をするものの声や音が裏裏山の方から聞こえてきたりするのだけれどそれがまるで聞こえない。確か六年生が野外演習に出掛けているはずだから、それもあるかもしれない。屋根の上に座り込みながら涼んでいれば、その代わりに虫の音がささやかに聞こえてくる。下ろしたままのしっとりとした髪がひんやりとした夜風に揺れるのを感じながら耳を澄ませていればそんな音と一緒にざくざくという音を聞いた。 「喜八郎?」 音もなく屋根から飛び降りる。そうして庭の隅っこにあまりにも不自然にぽっかりと空く穴を覗き込めば未だに制服のままの喜八郎がいた。白い肌が月の仄かな光によってくっきりと浮かび上がる。首を伸ばすように上を見上げた喜八郎のきょとりとしたまるい瞳と目が合う。 「、何してるのこんな時間に」 「それは私の科白なんだけど」 いつもよりも透き通って見えるふわふわの髪が、触れると柔らかい頬が、紫紺の制服が土を掘る度にまみれていくのはいつものことだけど、こんな時間になっても掘っているんだろうか。立ち上がった綾部の首から上だけがひょっこりと穴からあらわれる。それは傍から見たらとても不気味。喜八郎の醸し出す雰囲気は他の人とは少し違って、夜の潜んだ気配にそのまま溶け込んでしまいそうに見えるときがある。手を伸ばして触れれば夜の空気にあてられたのか少し冷たい、それでも人の温もりが私の指に熱をともす。 「まだ掘ってたの?」 「今日は絶好の日和だから」 「・・・涼しいってことね」 確かにもう間もなく夏休みを迎えようとしている夏真っ盛りの中、それは夜すら影響を受けてむしむしとした日が続いていたのにどうしたことか今日はよく風が吹いている。だからって誰もが寝静まるこんな時間にまで掘ることないだろうに。 踏子ちゃんを地面に突き刺したまま、作業の手を止めじっとこちらを見ていた喜八郎は何を思ったのか私の指を絡めとって「えいっ」と引っ張る。身構えてもいなかった私は重心が傾くのに逆らえず体は穴へと沈んでいく。抱きとめてくれるわけでもなく、そればかりか引っ張ったくせにひょいと私を避けてくれた喜八郎のせいで私は受け身をとることもかなわず固い土に頭を打った。 「きーはーちーろー」 「おやまあ」 「なんで落とすの」 白い寝間着は端々が土で汚れ、乾かしきっていない髪に指をとおしてみればパラパラと細かい粒が落ちていく。ひんやり冷たい土に穴の中は意外と涼しいものだと新発見に驚きながらだから綾部は夏でも涼しそうなのかと見当違いな方へと思考が飛びそうになる。引き止めるのはささやかな熱を持った指先だ。ほんの僅かの間、意識を別の場所へと飛ばしただけなのに気付いたらその顔はぐっと迫り、色素の薄い双眸が私の動きを封じる。 「のために掘った穴だから」 「え、は?私?」 「そう。のため」 男の子にしては細くて綺麗な指先が、泥をまとっているまま私の髪へと触れて梳いていく。ぱらっと喜八郎が梳いた場所から砂がこぼれていく。いつもとは逆。掘ることばかりに集中して自分のことなど無頓着な彼の髪や頬についた土を取り払うのは私の役目だったけれど、今喜八郎が私にそれをしてくれている。汚れたままの指ではどのみち髪は洗い直さなきゃいけないだろうけど、興味深そうにそれをする喜八郎を見れば文句を言う気など失せていた。それにまだ湿った髪に触れるその指先の熱がとても気持ちいい。目を細める私にこつんと額が合わせられ、その髪が頬を撫でる。柔らかく、そしてどこか艶のある髪は女の子のような容姿の喜八郎を更に引き立てる。私はこの髪に触れるのがすごく好き。仮にも女として負けているような気はするけれど、喜八郎という人を構成するために欠かせないものだと思えば愛しさは増すばかり。落とし穴だってそういうことには代わりはないはずなんだけど、さすがに関係のない子が巻き込まれてしまうのは可哀相な気もしないでもない。保健委員会に関してはどうしようもないけれど。 「私の掘る塹壕に落ちるのは保健委員や後輩たちが多いけど、私は彼らの為に掘ってるわけじゃないよ」 私が目をぱちりと瞬きしたのと同時、喜八郎のその口元が緩やかに弧をえがいた。綻んだ口元はすぐにいつものように戻ってしまったけれど、けど確かに見た。優しい月明かりに照らされてくっきりと浮かび上がった輪郭に、何よりも穏やかな双眸、三日月のように微笑んだ唇。 「いい加減もそれくらい気づいてるでしょ?」 滅多に見れない喜八郎の嬉しそうな顔を、こんなにも近くで見てしまえば落としてくれた文句なんて言えやしない。
ひみつは落とし穴の中
かなこさまへささげます。リクエストありがとうございました。 |