※このお話は花霞ヒロインで兵助と恋人設定になります。 そのことを踏まえた上でお読みになってください。 涼しげな風が申し訳程度に開いた襖の隙間から音もなく滑ってくる。 茵の上でごろりと横向けになってその隙間を眺める。 「・・・・・・眠れない」 布団に入ってからかれこれ半刻は経っているのだけれど一向に眠気が襲ってこない。ごろごろと茵の上で眠る体勢を変えながら必死に眠ろうと目を瞑って見るのだけど効果はイマイチなかった。少し暑いかなと思って僅かに開けておいた襖の隙間から見える外の景色をじっと眺めていた。そうやって暇を潰していればそのうち眠れるかもしれないと淡くも期待したみたのだけどそれも残念な結果に終わった。 でも、しょうがないかもしれない。吐き出した溜息は思いの他、しんと静まり返った室内には響く。分かっていた、こういう時は決まって寝つきが悪いって。 この学園で過ごす時間が長くなるにつれて布団に入れば自然と眠れるようになったし、夢見も良くなった。それはひとえに受け入れてくれた生徒達のおかげであり、常にこんな私を心配して気にかけてくれた人たちがいたからだった。与えてもらった安らぎにまどろむように瞳はゆっくりと閉じられ、他のことは何も頭に入れず、ただ安心だけを感じていればこの身は夢へとおちていくことができた。 そうやって日々を過ごす中、けれど唐突に思い出すときがくる。この世界で生きているという現実を。真実を。それは本当にふとした瞬間に感じてしまい、そんな日はどれだけ忘れようとしても結局は頭の中で色々と考えてしまい眠れないことが多かった。 何度か寝返りを打ちながら頭の中を空っぽにしようと試みたのだけれど上手くは行かない。開いた襖の隙間から見えるのは今となっては見慣れたこの世界の一片なのに、それを見つめる今の私の心が動転しているのかどこか釈然としない。まるで霧がかかったかのようにもやもやとした気持ち悪さに次第に落ち着かなくなる。 ―――・・・会いたい。 不意に湧き上がったその感情に驚いた。自分の感情なのにそれが嘘みたいに心臓が音を立てて鳴っている。これまで何度か同じような事態に陥ったことはあったけれど、そんな感情に襲われたことなんて一度もなかったのに、何で今回に限って。頭の中に浮かぶ姿をぶるりと首を一度振って思いと一緒に消し去ろうとした。けれど、急き立てるかのように感情は膨らんでいくばかりで止まらない。じわじわと分かりもしない焦燥に駆られる。結局、その思いに突き動かされて部屋を抜け出すまでにはそう時間はかからなかった。 霞がかった月が雲間からぼんやりと世界を照らす。夜目なんてものは効かないけれど、そんなもの必要ない程度に今夜は明るかった。けれど何かに躓いて物音でも立ててしまったら意味はないので慎重に、そして極力足音を殺して進む。遠くの方から風とともに運ばれてくる物音は今日もまた誰かが夜な夜な鍛錬に励んでいる証だろう。寝る間も惜しんで自主的に訓練をするなんて本当に凄いなぁと感心しながら進んでいれば、いつの間にか忍たま長屋の方にまで辿り着いていた。そこからは更に慎重に進んだ。何しろ、こんなところをこんな時間にうろついているのがばれてしまったら言い訳の仕様がないのだから。 そうして普段の倍以上の時間をかけて辿り着いた部屋の前。気配を察知することなどはさすがに出来ないけれどせめて回りに人が居ないことだけは確認しようと辺りを見回す。私がそれをやったところで意味はないと分かっていたけれど念の為と言う奴で、少なくとも見える範囲には人がいないことに安堵した。そうしてやっとのことで目の前の部屋――兵助君の部屋の襖へと手を伸ばそうとして、でも途中で止める。今更だけど何て声をかけたらいいのか、そのことに思い当たった。何しに来たのかと問われた時、どう答えればいいのだろう。確かじゃなくともこの心を燻る原因は何となく分かる。でもそれを口にすることはとても難しい。本心を言えばただ兵助君の顔が一目見たい、それだけだった。きっとそれだけでこのもやもやとたちこめる霧が晴れる気がした。理由なんて単純で、でも言葉にするにはとても勇気が要る。時間帯と言うものを考えると更に尻込みしてしまう。普通ならば眠っていてもおかしくはない刻の訪問など迷惑極まりないことは分かりきっているのに。思いに突き動かされてやってきてしまった事を今になって後悔する。それでも引き返すことも出来なかった。この襖を挟んだ向こう側に兵助君がいるのだと思うと足は動いてはくれない。会いたいのだ、とても。正直すぎる思いに多少の戸惑いはあったけれど、でもこの気持ちを誤魔化そうとは今は思えなかった。恥ずかしさよりも不安の方がずっと勝っている。だから一目だけでいい・・・その姿を見て安心したかった。 「さん?」 「あ・・・・・・」 色々と考え込んでいるうちに下を向いてしまっていたらしく、目の前の襖が開いたことに気付かなかった。私の名前を呼ぶその声を聞いただけで、心が凪いだ気がした。顔を上げれば不思議そうな顔をして私を見つめる瞳と目が合う。 「どうかしたんですか?」 「えっと・・・、その」 言葉は続かず、あー、とかうー、とかおかしな単語ばかりが零れ落ちる。やっぱり本当のことなど言えるはずもなくて、私は再び俯く。そうすることで兵助君が困るだろうということは分かっていたけれどどうすることも出来なかった。迷惑をかけたいわけじゃないのに、なんて言い訳じみたことを考えながらも、この場所に来てしまった時点で既に迷惑をかけてしまっていることに気付く。 やっぱり戻ろう。その姿を見れたのだからもうきっと大丈夫。そう思い込んで何でもないと口にするべく顔をあげようとする。けれどそれより先に手首に触れる温かさに気付いた。 「・・・とりあえず中に入ってください」 見上げた先の兵助君の表情はとても優しいもので。それだけでもう満たされたような気分になる。中へ入ることを促されるように手を引かれる。戻るなんて言う気にはなれず私はそのまま部屋の中に入った。 「眠れませんか?」 いきなり確信をつく一言をいわれ、平静を装うと思っていた私の表情は見事に崩れた。そんな私を見て苦笑する兵助君は始めから確信を持っていたようだった。隠しようのない現状にこくこくと首を縦に振る。 「何かありましたか」 「ううん、別に・・・」 逸らした視線の先には敷かれた布団があって、眠ろうとしていたことを物語っていた。こうして私がここにいる時間が長くなる分だけ、兵助君の睡眠時間を減らしてしまう。いつもいつもそう。私は兵助君に迷惑ばかりかけている気がする。出会ったあの時から今までずっと。決してそんなつもりはなくとも結果的に彼にかかる負担は次第に大きくなっていく。私が、こんな気持ちを抱いたことだってその一端を担っている。 「さん?」 私を呼ぶその声に、応えること出来ない。いっそこんな思いに気付かなければよかったのかもしれない。じっと感じる視線に顔を上げたいような気もするし、このままずっと背けたままでいたい気もする。どれくらい経ったのか、聞こえてきたのは溜息で自分でも分かり易いくらいにびくりと肩が揺れた。嫌われたくない。咄嗟にそんなことを思った私は自分の気持ちに嘘などつけないと感じた。 「余計な事考えてませんか?」 顔を上げたときには抱きしめられていた。急な出来事に頭はついていかず混乱する。そのなかでまるであやすかのように背を優しく叩かれた。 「一人で抱え込んで我慢する必要はないんですよ」 それは兵助君が私に対してよく言う言葉だった。ただ彼がそれを言うのは決まって私の中に巣食う不安が今にもあふれ出しそうなほどに広がった時。見計らったかのように紡がれる言葉は不思議なほどに私の心に響く。 「もっと頼ってください」 耳元で囁かれる一言はあまりにも優しすぎて保ち続けていた糸をぷつんと断ち切ってくれる。堰を切ったように感情は止まらず、隠すことは出来なかった。兵助君のその肩に顔を押し付けてせめて声だけでも抑えようと自分からぎゅ、としがみついた。あふれ出す涙は止まらず肩口を濡らしていくのにそれを許してくれるかのように兵助君の私を抱きしめる力が強まる。なので何も考えることなく思い切り泣く事が出来た。 「別に、何がどうってわけじゃないんだけど」 まだ涙は引っ込まないけれど、少しずつ取り戻してきた平常心に助けられながら言葉を紡ぐ。私が言葉もなく泣いている間、兵助君は何も言わずずっと抱きしめてくれていた。それだけで少しずつ心は満たされていく。不安が消えたわけじゃないけれどそれを忘れさせてくれる兵助君の存在は私の中でなくてはならないものとなっていく。 「ただ少しだけ寂しくて、不安になって、眠れなくて・・・それで」 「それで?」 するするといつもは言えないような本音を零すことが出来るのはその腕の中にいるからだろうか。続きを促す声にこの続きを言うのを少し戸惑ったけれど安心感からか気付いたら口にしていた。 「兵助君に、会いたいって思った」 温もりを感じていたくて涙は止まったけれど離れようとはしなかった。ずっと、この腕の中にいられたらいいのにと思う。それが無理かもしれないと思っても。生きる世界が違うことを私も兵助君も知っている。だから、今この時だけでもとそんな言い訳をする。 そっと私の背を撫でる掌があまりにも優しすぎて、次第に押し寄せてくる睡魔にそのまま身を委ねて意識はおちていった。 すすり泣く声が止まったかと思ったら思わぬ発言を残し、それからすぐに穏やかな寝息が届いた。俺の肩口に頭を乗せたまま眠るさんのその顔は今の状態じゃ見えないけれどずっと泣いていた所為で目許は少し腫れてしまっているだろう。 器用そうに見えて不器用な人だと思う。全てを抱え込んでしまい、それを発散させる方法を知らない人だった。切欠を与えないと泣くことすら出来ない。それでも出会った頃と比べれば少しはマシになったとは思う。以前はこちらから言わないと自分が溜め込んでいることにすら気付かなかったのだから。今日のように少しでも何かを感じて会いに来てくれただけ進歩したんじゃないのだろうか。そして俺を頼ってきてくれたことが純粋に嬉しかった。そんなことを考えていれば眠る直前、さんが残していった言葉を思い出した。 「・・・・・・はぁ」 今になってその発言が効いてきて体が熱くなる。通常時のさんならばそう言った言葉を決して口にしない。好きだとか言われたわけでもないのに。昂ぶってきた感情にさんが眠っていてくれて助かったと思った。手を出してしまったら手離すことなんて出来ない気がする。帰る場所があるのに、待っている人がいるのに無理矢理この世界に閉じ込めてしまいたくなる。 互いの気持ちが同じでもさんがそういう発言をしない理由が分かる気がした。もともとの性格的に恥ずかしくて言えないのもあるのだろうけどそれが原因じゃない。多分俺のそれと同じなんじゃないかと思う。帰らなければと思うからこそ、気持ちを押し込めている。自惚れとかじゃなく、そういう気質なんだ。俺も、さんも。 「さて、と」 眠っているさんを起こさないようにそっと抱きかかえて立ち上がる。襖を開けてくのたま長屋の方へと向かう。さすがにこの時間帯に起きている生徒はいないだろうし、いたとしてもここじゃなくて裏山の方だろう。気配にだけ気を遣いながら歩く。 さんの部屋はくのたま長屋の入口から比較的近い場所にあって、神経をすり減らす時間が短くて済むので助かった。敷かれたままの布団にその体を横たわらせて布団をかけてやる。開けられた襖の合間から零れる月明りがさんの顔を照らす。微かに赤く腫れた目尻には涙の滴が残っていてそっと指で触れて掬い取った。 暫くその寝顔を眺めていたけれどこのまま居座っていると戻りたくなくなる気がする。早いとこ自室に帰ろうと立ち上がりかけて、しゃがみ込む。そっと前髪を梳くってあらわれた額に唇を落とした。一瞬その唇に目が行ったけど色々な意味を込めてやめておいた。 「・・・おやすみなさい」 何も知らずに眠るさんの寝顔はいつも以上に幼く見えて三郎が年上には見えないと言っているのが頷ける気がした。
その感情と眠ったまま 蘇芳さまへささげます。リクエストありがとうございました。 |