「綾部喜八郎」 凛として、それでいて柔らかささえも含む声が頭上から降ってきた。私が手を止めて上を見上げればその声とは何とも対称的な顔に出迎えられた。怒っているのか、呆れているのか。屈んで穴を覗き込む先輩の表情はそのどちらにも見えた。何も答えない私に反応など期待していなかったかのように先輩はふっと息を落とす。 「懲りないわね、あんたは」 「・・・何がです?」 「とりあえず穴掘るのやめなさい。そして上がっておいで」 「穴じゃありません。ざん・・・、」 「分かったから。とっとと上がってきなさい」 言うだけ言って先輩は一人立ち上がり、私の視界から消えた。手を差し伸べる等という選択肢は先輩の頭の中には置かれていないらしい。もしも、その手がこちらへと伸ばされたなら思いっきり引っ張ってこの穴の中に閉じ込めてしまおうと思ったのに。つまらないな、と口を尖らせながらも自力で穴から這い上がった。 閉鎖的な場所から抜け出したときの開放感は嫌いじゃない。すっと掻き消えてしまった土の匂いに少しの違和感を覚えながら先輩を探す。けれどその必要はなく、瞬き一つの間に先輩は私の前に現れた。正確には移動したのだろう、僅かだけれど背後に残った名残に一度後ろを振り返って、それから先輩を見た。 「綾部は本当に無頓着だね」 「それは何に対してでしょうか」 眉尻を下げて笑った先輩の指が私の髪に触れて泥を取り払う。まるで今の問いかけにたいしての返答のような仕草は、けれどそんな意味はないのだと確信がもてた。先輩と言う人はそういう人だった。私なんかよりもずっと掴み所のない人。いいえ、掴ませてくれない人。 「全てのことにたいしてよ」 「全て・・・」 「そう。いい加減委員会の日くらい覚えて欲しいんだけどな」 知ってますよ。今日が委員会がある日だってことくらいは。委員会の日時を知らせにきた藤内が念を押すように何度も何度も告げていったのだから。けれどそんなこと、私にとっては気にかける必要もないことだった。ただいつもと同じ、塹壕を掘り続けるだけ。それら一つ一つに名前を考え、付けてあげること。それの繰り返し。そうすればほら、こうして私を探しに先輩がやってくる。たとえそれが立花先輩の命であったとしてもそれこそ重要じゃないのだと先輩もそこまでは知らないだろう。 「先輩」 「なあに」 「解決策は一つしかない、と言ったらどうしますか?」 先輩は私なんかよりもずっと頭の回転が速い人だ。じっと私を見つめる双眸は深みがあって先輩という人の真意を綺麗に覆い隠す。そしてその瞳は揺らぐ事もなく私の真意を攫っていこうとする。私に、それすらを気付かせないほど完璧に。 「・・・聞くだけ聞いてあげる」 「簡単です。先輩が私の掘った塹壕に落ちてくれたらいいんです」 「・・・・・・・・・綾部、あんたね」 軽く額をおさえる先輩はつい先ほどまで私が掘っていた塹壕を一瞥する。 「一度だけでいいんです。そうしたら次から私はちゃんと委員会に顔を出します」 「綾部は私が落ちると思っていってるの?」 「思ってません。落ちてくれないからいってるんです」 澱みのない綺麗な瞳はきっと目印を取り除いたとしても私の掘った塹壕を難なく見透かしてしまうのだろう。くのいち教室では優秀だと噂の先輩の一番の武器はその勘の良さだ。目印なんてあってもなくても先輩の前じゃきっと同じこと。 「却下。私を落としたいのなら勘付かれないほどの塹壕を掘ることね」 そう言って先輩はクナイを一つ取り出す。手首だけ動かして投げられたそれは私達のいる場所から少し進んだ先の地面に勢いよく刺さる。その拍子に辺りの土が砕けて雪崩れるように下へと落ちて行き、ぽっかりと穴が開いた。 「あの程度じゃ落ちてあげないよ」 私へと振り返った先輩は不敵に微笑む。クナイが刺さっただけで崩れ落ちてしまうなんて。私の掘った塹壕の完成度が低かったのか、クナイを的確な位置へと投げた先輩のその腕と勘が良いのか。おそらく後者であるそれに私はぐうの音もでない。 「綾部、委員会に行くよ。あんまり遅くなると私が立花先輩に怒られちゃう」 勝敗に確信を持ったのか私を待つことなく背を向けて歩き出す。途中で投げたクナイを回収しながら悠々と進む背中は、そうやって全てをやり過ごしていく。立花先輩に怒られることなんていつも気にもしていないのに。その言葉はただこの場を去る為の使いまわしでしかない。私が一番伝えたい言葉を回避する為のものだ。 「先輩」 歩くたびに揺れる先輩の栗色の髪を追いながら性質の悪い人だと思う。それはきっと私限定であり、その時だけは立花先輩を上回っているかもしれない。委員会で、一年の二人や藤内に見せるのは何の含みすらない、とても柔らかな笑顔なのだから。 「先ほどの解決策、却下だと言うのなら私はまた同じことを繰り返しますよ」 足を止めて肩越しに振り返る先輩があからさまに呆れた表情をしているのがここからでも分かった。私が見たいのはそんな顔じゃなくて先輩の笑った顔なのに。下級生に向けられるその笑顔が素直に欲しいと思う。 「だから覚悟しておいてください」 遠慮なんてしませんから。掴もうとすればひらりと交わしてすり抜けていくのなら、それすらかなわぬように閉じ込めてしまえばいい。その為にも私は塹壕を掘ることを辞めるわけにはいかないんですよ。
君に捧げる時間 むぎ様へささげます。リクエストありがとうございました。 |