「卒業したら、どうするの?」 まるで何も知らない幼子のようにそう問いかけた。答えなど知れたこと。それでもなお、彼の口から聞きたくて、でも聞きたくない気もして、歳が下なのを良い事に無垢な振りをして聞く。そうしたところで、生真面目で融通の利かない彼の答えは変わらないというのに。愚かなことをしていると自覚はある。でも、聞かずにはいられなかった。 故郷に戻ってきても尚、鍛練を欠かさない背中が振り返った。首筋を滑って落ちていく汗がどこか艶めかしくて思わず視線を逸らしてしまいそうになる。おろおろと漂わせた挙句、そっと見上げる。縁側に腰掛ける私と、立ったままの彼とでは視線の差が大きい。薄らと隈が浮かびあがった眸をすっと細められると睨まれたような気がして少しだけ委縮する。怖いと思ったことはないけれど、歳を追うごとにその視線の力強さに圧倒されるようになった。それは広がった距離を示しているようで怖さなんかよりも寂しさの方が大きいのかもしれない。 「前も聞いてたな」 「…そうだっけ?」 首を傾げて惚けて見せる。幼稚な振りをしていれば、いつまでもそんなことでは、と窘められるけれど最後の最後には諦めたように答えてくれるのを私は知っている。もしかしたら私のそんな浅はかな誤魔化しなど彼は見通しているかもしれない。けれど、指摘されないのなら私も気付かない振りをする。ずるい?分かってる。でも、決して彼に勝てやしない私はそうやって我儘な年下の幼馴染みを演じることでしか何も出来ないのだから少しくらいいいじゃない。 「聞いてどうする?」 「別に…、どうもしないよ。聞いてみただけ」 忍術学園に入る時は忍になるなんて言ってなかったのに。既に知る答えを文次郎が言い始めたのはいつだっただろう。ある日を境にはっきりとそう告げるようになったことだけは覚えている。忍とはどういったものなのか、私にはよく分からない。一度だけ聞いてみたことがあるけれど「闇に生きるものだ」なんて何とも的を得ない回答が返ってきて私にはちんぷんかんぷんだった。聞き返すにはその声音は固く、冷たすぎた。あまり知って欲しくはないような気がして私はそれ以上は何も言えなかった。 「…もんじろ」 「何だ?」 「もう帰ってこないつもりなの?」 地面へと着く足をわざとぷらぷらと揺らす。膝の上に乗せた手を弄りながらふと遠くを見つめる文次郎の背中を見つめた。ずっとずっと見つめて、見送って来た背中だ。小さくても私にとっては頼りがいのあったその背は、年を追うごとに大きく、逞しく、そして遠のいていく。いつかは届かなくなるのだと幼いながらに感じてしまった。そのいつかがもう目前に迫ってきていることも漠然と感じている。 寂しい。寂しいと心が泣いている。可愛がってもらった記憶などない。でも優しかったとは思う。分かりにくい優しさは、彼の意思ではなかったのだろう。おじさまが私を実の娘のように可愛がって下さっていたから、だからそのおじさまに色々と言われていたからなんだろう。だって、昔の文次郎はしぶしぶと言った感じで私のお遊びに付き合ってくれていたから。でも、少しずつ、それが変わって来た。叱られることが多くなった。母上達みたいに口煩くなった。そういえば父上みたい、って零した時は相当怒られたなぁ。でも心配してくれてたんだよね。それが分からないほど私は子供ではなかったの。文次郎なりの優しさだって、私、ちゃんと分かってたよ。 「ねぇ、もんじろう…」 だから、好きだった。もんじろうが大好きだった。帰ってくる度に彼の目の下の隈が酷くなろうともそれすらも愛おしかった。口にしたことなんてない。だって、一蹴されるに決まってる。絶対に受け入れてなんてもらえないこと、分かってる。文次郎の気持ちなんて分からないけど、私をその道に引きずり込みたくはないってことくらい分かるのだ。私はそれが分かるくらいには成長している。 「、お前はもう帰れ」 「っなんで」 「もうきっと会うことはないだろう」 もう決して振り返りはしない背中。いつか、だったはずのその時がたった今訪れている。立ちあがって足を踏み出せば届くはずなのに、それすら出来ないのがもどかしい。駄々をこねることが出来たらよかったのに。最後まで幼子のように振る舞えない私は初めから彼に見破られていたんだろう。 揺らしていた足をそっと地面へと下ろした。立ちあがったのは文次郎へ近づく為じゃない。別れへの合図。おばさまが淹れてくださったお茶が縁側に取り残される。おばさまの淹れるお茶はとても美味しくて大好きだったのに、それももう飲むことはないのだろう。私がここに来る理由は文次郎が居るから以外になかったのだ。家に帰った私を待っているのはずっと突っぱねてきた見合いの数々だ。 「………死なないでね、文次郎」 はたして最後の言葉に相応しかったのか分からない。でも、心からの願いだった。闇に生きることがどんなことか分からなくとも忍の仕事が命掛けだってことは知ってた。だからどうか、無事であって。 「…、幸せになれよ」 歩き出そうとした足は止まる。ぼそりと呟かれた声に思わず振り返れば変わらない背中が目に飛び込んだ。ずっとずっと見つめてきた背。じん、と目頭が熱くなる。滲む視界の中で、決して忘れることのないようにとその背中を眼に焼き付けた。
ちいさく泣いた |