甘酸っぱそうな香りが鼻腔を擽った。落としていた瞼をそっと押し上げれば飛び込んできたのは新作で最近お店に出したばかりのケーキ。春の苺フェアに合わせて作られたそれは予想以上に好評で閉店前には売り切れてしまうほど。優しい薄紅色のクリームが春らしさを前面に醸しだしていて女性からの支持が圧倒的に高い。それは勿論働いている私にしても同様でいつか食べてみたいと密かに思っていたケーキだった。
カタン、と音がする。テーブルに頭を預けたままで視線をずらす。ケーキに釘付けになっていて気付かなかったけれど向かい側の席にはいつの間にか泉が座っていた。

「あ、お疲れ」
「おー。てかお前こんなとこで寝てんなよ」

支給されている制服のネクタイを緩める姿はどことなく様になっていてそわそわしてしまう。男の子の何気ない仕草はいつだってときめきを呼ぶ。別にそれは泉限定ではなくて、同じバイトの男の子たち誰に対しても起こる現象だけど。イケメン揃いと評判のここに長いこと働いていればそんなときめきも一々気にすることはなくなる。つまり感覚が麻痺してしまっているんだろうなぁ。女の子としてそれは少し問題かもしれない。そんなことを考えていれば痛くもないチョップを頭にくらい渋々頭を持ち上げ、身体を起こした。

「だって疲れたんだもん。休憩時間くらい何したって自由でしょ」
「無防備過ぎ、このアホ」
「アホってひど!」

休憩時間は決まっていて休憩室として使われる事務所は私と泉以外には人は居なくて閑散としている。店内に流れる涼やかな風も落ち着いたメロディも遮断されている。誰も居ない事務所で無防備も何もないと思うのは私だけだろうか。それに私と休憩の時間が被るのは泉だけだと知っていたし。

「そうじゃなくて…」
「分かってるよ。けど気に入らない」
「…は?」
「いいよ、もう。の鈍さは筋金入りだし諦めてる」

一人で勝手に自己完結させる泉に腹は立ったけれど、それより私の心を惹きつけていたのは少し前からずっと気になっていた新作のケーキで、意識せずにそちらに視線がちらちらと行ってしまう。だって、ずっと食べたいと思っていたケーキだ。それが目前に置かれてしまったらどうしたって気になってしまう。女の子はいつだって甘いものには弱いもの。

「ねぇ泉、それよりさ」
「このケーキだろ?」
「そう、それ!どうしたの?泉が持ってきたんだよね」

私と泉を挟んだちょうど真ん中に置かれているケーキを指差す。外れそうにない期待に頬が緩まっていく。もちろん同時に疑問が引っ掛かってすぐに手を出すことは出来ないのは私にもこの店で働いている自覚があるから。お客様が第一。今一番の人気でしかも期間限定ともあれば躊躇はしてしまう。閉店後に余っているのならまだしも、閉店までにはまだまだ時間がある。例えチーフを任せられている泉が持ってきたものだとしてもいいのかな、なんて思ってしまう。

「褒美だよ。ここんとこ休みなしでシフト入れてただろ」
「そうだけどでも…」
「でも?」
「それはお金貯めて色々買いたかったからで、自分のためだし」

お店のためかと問われてたら私は否定しなければならない。春休みでいつもの倍のお客様が来店し忙しいこととは何ら関係ない。目前の甘い誘惑に落ちそうになるけれど、褒美だなんて言われたら誤魔化すわけにはいかない。

「理由はどうであれ、皆感謝してんだよ。だから貰っとけ」

ケーキと一緒にお皿に乗せられていたフォークを手にして私へと差し出す。じっと見つめる瞳に負けて受け取ってしまったけれど真ん中に置かれているお皿を引き寄せるまでにはいかない。頑張っていることへの褒美だと思うのなら、それは目の前にいる彼こそ受け取るべきものじゃないのか。チーフと言う立場もあるのかもしれないけれどふと目にしたシフト表に彼の名前がびっしりと埋められていたのは記憶にあたらしい。思えば私が入っている日は必ず泉の姿があった。

「まだなんかあるのかよ」

そう言う泉は頬杖を付いてすらりとしたその指でトントンと頬を叩く。その姿にまたもそわそわさせられる。どうしてこう、一々やることが様になってしまうんだろう。慣れているなんて言ったけれど、ドキドキしてしまうことには何ら変わりはない。特に彼の場合は余計にそうなのだから困るのに。

「いや、一番働いている人を差し置いて食べるのはどうかなぁ、と」

ここのバイトはすごく好き。お店の雰囲気が気に入って入ったのだけれど、一緒に働くバイトの子もパティシエの人達も優しくて温かい。アットホームな雰囲気がいつだって流れていてとても居心地が良かった。そこに私を引っ張り込んでくれた泉は私の中では別格であり、尊敬もしているし感謝だってしている。加えるならば邪とも呼べる感情だって実は潜んでいる。要約すれば大切な人だと言う事には変わりはない。

「その俺が食べていいって言ってんだから素直に受け取っとけ」

気付けば小さな店内の中でいつも彼を見つめてる。声が聞こえれば無意識にその姿を探してる。出勤日が重なっていることで芽生えた嬉しさは確かにこの胸の中に潜んでいる。出勤日や休憩時間が重なる度に偶然じゃないのだと思ってしまいたくなる。

スッと私の方へと皿を押す。どうぞとばかりにじっと私を見つめる姿にそれならと一口食べた。あ、美味しい。甘すぎず控えめに作ったと聞いていたけど正にその通り。人気があるのがよく分かる。

「美味しい」
「そりゃよかったな」
「でもよく分かったね。私がこれ食べたいって思ってたこと」

知ってるよ。はっきりそう言った泉にフォークを口に咥えたまま彼を見た。

「物欲しそうにこのケーキを見てたことくらい知ってんだよ」

たった一言で、ずっと食べたかったケーキから私を惹き付けてしまうことが出来るのは泉だけなんだよ。不敵な笑みを見せる彼は、きっとそんなこと初めから知ってたに違いない。

「お前が俺を見てるのと同じくらい、俺だってを見てきたんだ」
「、」
「それとも俺の自惚れだった?」

首を横に振ることが精一杯の私に。その返事だけで満足とばかりに優しく笑う彼に。ほら、またそわそわしてしまう。



言葉だって融けてしまう