外灯が頼りなさげに仄かに光っている。閑静な住宅街で街中と比べるととても静かで人の通りも少ない所為かどこか不気味な雰囲気を感じる。家への最寄道を歩いている所為で車の通りも少なくて、聞こえてくるのは自分の足音だけだった。履き慣れてきたローファーが奏でるのは少し遅めのテンポで、この意味もなく恐ろしく感じる通りを早く抜けたいと言う気持ちはあるのにそんな思いとは裏腹に精神的に参ってしまっているからなのか足は思うように動いてくれなかった。
学校指定の鞄とは別に提げているバッグが体に負担をかけているのは言うまでもなかった。宿題が出た教科の教科書が数冊入っている鞄はついでに辞書なども一緒なものだからやたら重い。そして同じような手提げのバックの中にはつい最近通い始めた塾の教科書がある。ずっしりとした重みは肩と腕に多大な負担をかけて定期的に持ち替えて歩かないと腕が引き千切れてしまいそうだった。

夏の夜風が剥きだしの肌を掠めていく。昼間に比べると気温は大分下がっているのだろうけれど蒸し暑さは消えてはくれない。数十分前まではクーラーの効いた涼しい教室に居た所為もあるんだろう、この暑さはちょっとやそっとの風では消えそうにもない。家までの距離を考えて溜息をつきたくなった。これがこれから毎日続くかと思うともう塾なんてやめてしまいたくなる。
勉強なんて別に好きじゃない。好きでやってるわけじゃない。進学校という肩書きが肩身を狭くさせている。先のことがまるで見えていないというのにただ我武者羅に勉強をし続けて一体何の意味があるんだろう。そんなこと、思ってしまった時点で私はきっと終わってしまっている。大学進学と言う一つの目標を目指して突き進む彼ら・彼女らの中から弾きだされてしまっているに違いない。

「あれ、じゃん」

キィと言うブレーキのかかる音が背後で聞こえたかと思うと、私のすぐ側で一台の自転車が止まる。反動でやってきた風は私の髪の先を静かに揺らしてどこかへと逃げていく。自転車に乗ってきたその人はハンドルの部分に腕を乗せて覗き込むように私を見上げてきた。

「泉?」
「久しぶりだな。こんな時間まで何してんの?」

きょとんとした顔で訊ねる泉は部活動の帰りなんだろう。くたびれたエナメルのバッグがカゴの中におさまりきらず少しだけはみ出して窮屈そうだ。くりくりっとした彼の目に相変わらず男の子なのにおっきな目だなぁと思いながら「塾の帰り」だと零す。何となく話の流れで「泉は?」なんて聞き返したけれど、どんな答えが返ってくるかは聞かずとも予測できてしまえた。

「俺?部活の帰りだけど」

うん、まぁ聞くまでもなかった。思っていたとおりの答えが返って来たのだけど、特に返すこともなくふぅん、と素っ気無い返事しか返せない。先ほどまでの塾でフル回転していた思考は今じゃ全く機動してくれない。言葉が見つからず、変わりに提げている鞄を反対の手へと持ち直す。重みに耐えてくれていた片手は赤くなってじんじんと極僅かな痛みを呼ぶ。これでも必要最低限におさえたというのに、何でこんなにも重いのか。小さなことでストレスが増し、苛立ってくる。周囲からの期待を背負うことがこんなにも大変だなんて知らなかった、知りたくもなかった。ただならぬ重圧に根を上げてしまいそうなのを今、何とか堪えている状況だ。放棄してしまった途端、きっと全てから解放される。だけど同時に期待はずれだと言わんばかりの失望の眼差しと言いようのない虚無感。

さぁ、なんか雰囲気変わったな」
「え…?」

完全に泉の存在を掻き消して、今現在の大きな問題について頭を悩ませていた。ごめん、何て言った?ともう一度聞き返すせば泉は窺うように私をじっと見た。上の空だったことに怒っているのかなと思ったけれど、どうも違うみたいだった。

「なんか悩みでもあんの」
「どうして」
「すっげー思いつめてる顔してんぞ」
「うそ…?」
「ホント。何つーか、生きることに疲れたって顔してる」
「そんな、悲惨な顔してるんだ」

空いている片手で泉曰く疲れを前面に現している顔に触れてみる。触ったところで何か分かるわけでもないと思っていたのに、気持ち肌がパサパサとして以前よりも潤いが失われてしまったように感じられた。ストレスが影響しているのかもしれない。何だか嫌だな。したくもない勉強をして、ストレスが溜まって肌までかさかさになってしまうなんて。本当にいっそ、全部投げ出してしまおうか。

「それとさっきのは、雰囲気変わったよなって言ったの」

私がそれに対して何か答える前に泉は素早く「悪い意味のな」とあっさりつけ加える。遠慮も何もないその言葉にムッとしたけれど、泉の言っていることはある意味間違っていないと思うと言い返す言葉もなく、黙りこむしかなかった。

「何つーか、空気がすっげピリピリしてる」

塾は互いを高めあうための場所だ、常にそう言い続ける塾の講師の言葉が身に染み付いてしまったんだろうか。周りに遅れをとらないよう、隣に座る生徒に負けないようにといつも気を張っていたのが泉にまでも伝わってしまっている。塾の場だけだと気をつけていたのにプライベートの今でさえもそれが表に出てしまっているんだろうか。

「・・・そっか。今の私そんなんなんだ」
って確か進学校だろ。勉強大変なんだな」
「うん。もう嫌。限界寸前ってとこ」

何かのきっかけで全てが崩れていくんだろう。予感はしている。その時私は清々しい解放感を味わい、周囲の期待を裏切り失望の眼差しを浴びることになる。ギリギリのところで私の限界を留めているのは失望の眼差しに対する畏怖だ。全てを背負って生きていくなんてこと私には出来ない。だから裏切るだなんてこと、したくないのも事実。だからどっちにも付けず、中途半端な位置で立ち止まっている。

「いっそ、どこかに逃げちゃいたいよ」

私のことを誰も知らない世界に逃げてしまいたい。誰かに縛られることなく自由に生きてみたい。泉みたいに好きなことだけに目を向けて高校生でしか出来ない青春を味わってみたい。それは、行けないことなんだろうか?久しぶりに会った泉を見ているととても眩しくて、私なんかとは違いすぎて、羨ましい。

「んじゃ逃げてみる?」
「え……?」
「一人じゃ怖いんだろ。付き合ってやってもいいけど?」

提げていたバッグを奪われた。おもっ、と言いながら軽々とそれを持ち上げた泉は自転車のカゴの中に無理矢理押し込んだ。エナメルのバッグが潰れる。いいの?と聞いた私に平気だと答えた泉はじっと私を見た。どうする、とその瞳が聞いてくる。躊躇したのはほんの一瞬だった。行く!そう答えて泉の後ろに座った。んじゃ行くか、と言って泉は自転車を走らせる。服の裾を掴みながら目の前に広がる背中を見つめた。同じくらいの身長なのにその背中は私なんかよりもずっと逞しかった。夜風が気持ち良い。泉とならどこにでもいけるような、そんな気がした。



連れて行って、世界の果てに




2007/05/12  (貴方と二人、楽園の世界に