寒々とした冬の空気は薄れつつある。日中は暖かさも増し比較的過ごしやすい日が続いていた。暦の上でなら春は既に訪れている。日が落ちればまだまだ気温はぐっと下がり冬空が広がるけれども、寒いのは嫌いじゃないから特別困ったことはなかった。
ツンと沁みる冷たさは脳を刺激して私の意識をこの場にとどめさせてくれる。冬の空気はどことなく澄んでいて心までもが綺麗に研ぎ澄まされていくような感じがするから嫌いじゃない。時折とても鋭く刃のように突き刺すこともあるけれどそれは気まぐれのようなものだと都合よく考えればそれほど気になるものじゃなかった。

吐き出す息はまだ白い。日が落ちて気温が下がり始めた。夜はまだまだ冷え込んで何枚も上着を重ねて厚着しなければ凌ぐのは難しいことだろう。そうなる前には帰れるかな、と少し離れた位置にある部室を見つめた。
そうして少しの間部室を眺めていると背後で足音がした。薄暗くなり始め視界が悪くなりつつあるから感覚が鈍っているのかもしれない。すぐ側にまで人が近づいていたにも関わらず気付かなかったことに驚きながら振り返った。

「何してんだよ」
「たか……阿部、先輩」
「気味悪ぃな。その呼び方」

しかめっ面しつつも唇に笑みを乗せるその様子は冗談交じりだと知っているから怖いとは思わなかった。もとより私の目の前に立つ一つ年上の幼馴染みを本心から怖いと思ったことは一度もない。

「だって名前で呼ぶなって言うんだもん」
「はっ、気が小せぇな」

鼻で笑いながら向けられた視線の先は野球部の部室だ。正確には部室ではなくその中に居る、ただ一人だけに向けたものだろう。距離があるにも関わらず部室から漏れる声がこちらにまで届いて来ている。内容こそ分からないが楽しそうであることには間違いなかった。盛り上がっているそこから一人抜け出してきたこの幼馴染みは人付き合いが悪いとかそう言ったわけじゃなくてただ単に用事か何かあったからなんだろう。ずっとここで待っていたから隆也以外にも何人かが部室から出て行くところは目撃している。

「で、待ってることは言ってあんのかよ」
「ないけど」
「アホだろお前。だったらせめてもうちょい着込んどけ」
「平気。寒いの得意だし」

にっこり微笑めば言うだけ無駄だと悟ったように呆れた視線が向けられた。その後幾つか小言を言い残して帰っていった。必要以上に他人と馴れ合うことをしない隆也だけれど、幼馴染みと言うことも手伝ってか私に対しては少しばかり心を開いてくれている。でなければ小言なんて言ったりはしない。昔に比べたら交流なんて随分と減ってしまったけれど、でも断ち切れてはいない。そしてそのことに勝手だろうけど凄く感謝している。そのおかげで私は、私の心の大半を占めてしまっている彼と出会うことが出来たのだ。



早くも見えなくなった幼馴染みの去っていった方向を見つめつつ、確かにちょっとばかり寒いかもしれないとその空気を吸い込む。身勝手にもここで待つのは単純に私の我侭だ。だからどれだけ寒くても待つことは苦痛ではない。そうした中で待ち続け、ようやく会えた時の温かさは格別だから。

!」

バン、と背後から大きな音がした。その音が部室の扉を勢いよく開けた音なのだと知ったのは振り返ってからだ。慌てたように飛び出してきたのが誰よりも会いたかった人だと気付いたのは私の名前が聞こえたその瞬間だった。物凄い速さで駆け寄ってくる。何事かと目を見開く私の目の前で急停止した先輩は何か言うよりも先ず私のその手を取った。

「文貴先輩?」
「冷っ!ちょ、待ってるなら何でそう言ってくれないわけ?」

勢い任せで話している文貴先輩は怒っているような、情けなさそうな、そんなどちらとも取れない顔をする。

「何となく……って何で知ってるんですか?」
「…あー、阿部がさメールで教えてくれたんだよ」
「隆也が?」

思わずポロっと零れた名前に渋面していた顔が更に険しくなる。文貴先輩にはそういう表情は似合わない。慌てて阿部先輩、と言いなおすとゆっくりいつもの先輩に戻る。咄嗟だとどうしても言い慣れてしまっている呼び方が出てしまうのだ。それを気に食わないと思ってくれるのは乙女心としては大変に嬉しいのだけれど、阿部先輩だなんて呼ぶのはどうしてもしっくりとこなくてむずむずとする。けれども出来るだけこの人が願うことは叶えてあげたいと思う。だからどれだけ違和感を感じたって私は守ろうと努力するんだろう。

「あのさ待つときは俺にちゃんと教えてよ」
「はい」
「あーもう、風邪でも引いちゃったらどうすんの」

温めようとぎゅっと力を込めて握られた掌から熱が伝わる。視線を上げれば困惑した瞳とぶつかる。けれど私をとらえたその瞳は優しく細められて、柔らかい笑顔が向けられる。凛々しいとは呼べない笑顔だけれど、込められた想いが私を温かく包み込んでくれる。野球をしている時も素敵だとは思うけれど、文貴先輩を好きになった一番の理由はそこにある。この人さえいれば何も要らないのだと、そんな人に会えた奇蹟をどう伝えようか。すっかり温まった掌に先輩のそれを重ね、決して離さないようにと握り締めた。

「ちょっとだけ寄り道して帰りませんか?」

笑って頷く先輩に微笑み返して、ゆっくりと歩き出す。時間はたっぷりとある。だから少しでもこの想いが届けばいい。




掌に愛を込めて




2008/03/05  ※相互記念にルカちゃんに捧げます!