茹だるようなこの季節でも見せる笑顔は変わらない。いや、この季節だからこそ彼のその笑顔はより一層元気に見えるのだろうか。竹筒に入った冷たい水を飲み干して、ギラギラと照る太陽の光を浴びて見せる笑顔のそれはさながら夏に咲く向日葵のようだ。言葉にしたことはないがいつもそんなことを思っていた。 「八左ヱ門」 理由もなく紡ぐ言葉を彼はいつも掬い上げてくれる。ん?と笑ったままの顔で私の言葉の続きを待つ。しかしそこに意味がなかった私には続く言葉などなく、自身の膝の上で気持ち良さそうに眠るネコの頭をそっと撫でた。 「随分と懐くようになったな」 八左ヱ門は膝の上の猫を覗き込んで意外そうな声を出す。 「八左ヱ門が前にこの子を見たのは拾ったばっかりの頃じゃない。あれから私が責任もって面倒見てきたんだから」 捨てネコだったこの子を拾ったのはまだ桜が散る前の春だった。忍術学園と言う忍になるための学園に入っていた八左ヱ門が数日間、実家へと帰省していた時に私が震えているこの子を見つけたのだ。昔から虫は平気だったし、生き物が好きだった八左ヱ門は忍術学園に入ってからその傾向が一層強まったみたいでその知識は最早私にはついていけないほどだった。でも、だからこそこの子を拾ってすぐに私は八左ヱ門の下へ向かった。少し弱っている子ネコはまだ生まれて間もないようで、生命の危機に陥りかけている場面に出くわしたのかもしれないと思った。どうすればいいのか分からない私は八左ヱ門に助けを求めるしか思いつかなかったのだ。 八左ヱ門はすぐに対処してくれた。同じような場面に遭遇したことがあるかのように素早く的確な処置のおかげで子ネコはすぐに元気になり愛らしい鳴き声を聞かせてくれるようになった。子ネコは八左ヱ門に懐いてたみたいだけど、彼はそれから数日後にはこの村を発ち忍術学園に戻らなければいけなかった。この子を見つけたのは私だったから、責任を持って面倒を見ろよ。そう笑って八左ヱ門は行ってしまったのだ。あれから季節は一つ過ぎ、夏になった。長期休みに入って帰ってきた八左ヱ門が再びここを去ってしまうまではもう残り少ない。 「面倒な事が嫌いなお前にしては頑張ってるんだな」 「八左ヱ門が責任もって面倒を見ろって言ったんじゃない」 「そういやそうだったか」 「それにこの子は可愛いし、ずっと私の傍に居てくれるから好きよ」 誰かさんと違って。その言葉は押し留めて今度はこの子の背を撫でる。燦々と降り注ぐ日光を縁側から見上げた。真夏の真昼間なんて暑くて堪らないというのに私の膝の上で眠るこの子にはまるでそんなことが関係ないように見える。それどころかこの子にとってあの忌々しい陽射しは陽だまりのように感じているのではとも思えてくる。 「そうか、じゃあ安心だな」 「八?」 どういう意味だと聞こうとして、私は自分の失態に気づく。 膝の上でピクリと動きがあり、目を開けたネコが鳴き声を上げる。 「…あ」 「へぇ、お前八って言うのか」 私の膝の上からネコを取り上げ己の腕の中で抱く。ナァと低い声を上げたネコは八左ヱ門が頭を一撫ですると途端に機嫌を取り戻しその瞳を細めている。 その光景を見ながら私はバレてしまった恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだった。穴があったら入りたい。うっかり昔みたいに八と呼んでしまった自分が恨めしい。 「なるほど。どうりで長ったらしいって言ってた俺の名前を丁寧に呼ぶようになったのか」 八左ヱ門の笑顔は相変わらずだ。けれど今ばかりはその笑顔が憎い。 有利な立場に立ったと分かった八左ヱ門に向かって口を尖らせる。 「なぁ、さっき言ってた意味だけどな」 片腕でネコを抱き、反対の手で私の頭を撫でる。 それが先ほどのネコの機嫌をとるのを同じみたいで私は更に不機嫌になる。 「こいつがいればお前も寂しくはないだろ」 俺が忍術学園に戻る時泣いてばっかだったからなー、と余計なことまで言ってくれる。一体いつの話を持ち出しているのだろう。涙でぐしゃぐしゃの顔で八左ヱ門を見送っていたのは数年も前の話だ。今なら笑顔で送り出せる。笑顔を作って手を振ることだって余裕だ。 「次の秋休みまではお前が俺の代わりだな」 ネコを抱えたまま腕を高く上げて眩しい笑顔を浮かべる。それが嫌じゃないのか見上げた先のネコは嬉しそうな鳴声をあげた。そのままネコは私の膝の上に戻される。呆然と八左ヱ門を見つめるしかなかった私の、その視線に気づいた彼はこちらを向いてやっぱり私には勿体無いくらいの笑顔をくれる。 「んじゃ俺そろそろ行くな。準備しないと間に合わないし」 立ち上がる八左ヱ門を見上げながらもう一度私の頭に乗った掌の大きさに今更に気付かされる。ポンポンと、まるで宥めるようなそんな優しい叩き方に小さな我侭すら口には出来なかった。 「…八」 「ん?」 「ちゃんと秋になったら帰ってきてね」 「当たり前だろ」 そうやって笑って私に背を向けた。広く逞しくなったその背を私はじっと見送った。早く秋休みになればいい。そう思いながら。きっと八左ヱ門は「ただいま」と言ってあの向日葵のような快活な笑顔を見せてくれるはずだから。だから。ミャーと甘えるように鳴いた八の頭を撫でながら夏から遠ざかるその背をいつまでも見つめていた。
夏の背にひとり//竹谷八左ヱ門 |