その人は繊細そうで、優しそうで、どこか儚げな印象すら抱かせる、そんな大人しそうな先輩に見えた。けれどその人の前に立って、真正面から笑みを受けとめた瞬間、その印象は跡形もなく消え去った。この人は、底の見えない人だ。見た目とは裏腹に何を考えているのか分からない、読ませない、食えぬタイプの人間。挙げるならば立花先輩と同類の人だ。初めまして、と柔らかく微笑む先輩はとても優しい人のように思えるけれど、騙されてはならないと私の中で警鐘の鐘が鳴る。数分前の三郎の警告が頭の中でぐるぐると回っていた。 「テニス部の部長、幸村精一だ。うちの赤也が随分と世話になっているみたいだね」 「いえ、お世話した記憶は欠片もありませんよ」 教室から少し離れた廊下で改めて対面した幸村先輩はとても自然な動作で手を差し出してきたけれど、私は見えなかった振りをした。ついでに、名前も名乗らなかった。どうせ、切原くんから伝えられて知っていたのだろうけれど。ちらりと先輩の隣に立つ切原くんを一瞥すれば私の一言に密かに眉を寄せているが、先輩のいる手前なのか何も言わずじっと立ったまま。そんないつもとはあまりにもかけ離れた大人しい姿に密かに瞠目しながら、ならばそれほど彼にとってこの先輩の存在は大きいのかと思う。 「随分と警戒されてるみたいだね。そんなに赤也の勧誘はしつこかったのかな?」 「んー、はっきり言っていい迷惑でしたね。彼は何度言っても諦めてくれませんので」 「そうか。でも、俺も実は君にお願いしにきたんだけどな」 後輩の私に対しても丁寧な口調。さっきから敢えて失礼な態度と発言ばかり繰り返す私を咎めることもせず笑って受け止める幸村先輩と言う人は腹の底で何を考えているのか分からない。 「部長直々に、ですか。随分とお困りなんですね」 「そう思うのなら引き受けて欲しいんだけど」 「それとこれは別ですから」 ひやりとした空気が私たちの間に流れる。ずっと笑みを纏っているのに幸村先輩の双眸は鈍く煌めいている。まるで狙った獲物は逃さないとばかりに。それに恐怖を感じることはないけれど嫌な汗がつ、と伝った。同じタイプの人間でも立花先輩と違うのはこの人の空気。立花先輩のそれはもっと顕著だ。その唇に薄らと笑みを浮かべて楽しむように物事に干渉してくる。あからさまな確信犯、それが立花先輩。でも幸村先輩は全てを覆い隠す。何も知らないと伝えてくるような微笑み。その印象は立花先輩よりも、善法寺先輩に近いのかもしれない。 「どうしても、かな?」 「どうしてもです」 強要させない割に引くつもりはないのか、こちらの意思をきっぱりと示してもまるで動じない。ああ、ほんと厄介な人だ。これなら切原くんにしつこく纏わりつかれていた方が全然マシ。あしらうことの出来る相手とそうでない相手の区別ははっきりしている。切原くんは前者、幸村先輩はおそらく後者。あしらってもそれをものともしないのが幸村先輩。そっと顔を曇らせる表情は憂い気でまるで同情を誘っているかのよう。それに心を揺さぶられる私ではないけれど、計算付くな所を見せつけられるとこの攻防戦は長引くほど自分が不利になるのではないかと思う。 「大体どうして私に拘るのですか?ここには私以外にもたくさんの生徒は居て、候補だっていくらでもいるでしょう?」 「君が一番適していると思ったからだよ。シャトルランテストの記録聞いたよ。うちは全国優勝を目標に掲げている。その為に他の部よりもずっと厳しいメニューを組んでいて、それに付いてくることが出来る子が必要なんだ」 「でも、体力のある子でしたら私以外にだっていますよ」 「こう見えてうちの部は何かと注目を浴びていてね。レギュラーメンバーには個人差はあるけどファンみたいな子が多く存在して彼らを目的にマネージャーに立候補する生徒も多い。その点、君は全く問題ない」 幸村先輩のファンが存在するという発言には驚くほかなかった。どこのアイドルだと言いたくなる。でも、そう言えば中等部の頃からそんな話を耳にした気もするなぁ。中学の頃は耳に入ってくる情報も関係ないとばかりに聞き流していたからうろ覚えだけど、確かに一際人気の生徒がいて、彼らには熱烈なファンのような女子生徒がいるとかどうとか。それがテニス部のレギュラーメンバーの方々と言う事ね。そして、その一人がこの部長である幸村先輩であり、隣で先ほどから口を挟まず大人しくしている切原くんであると。 でも、これで少しだけ納得した。シャトルランテストの時、あれだけ切原くんへの応援が多かったことも、先ほど幸村先輩が現れた時のクラスメイト達のざわめきも、全てその所為だったと言う訳か。同時に今自分がどれだけ厄介で面倒なことに巻き込まれてしまっているのかも。自業自得なのかなぁ、これ。あの時、三郎の言うとおりに適当なところで脱落していればこんなことにはならなかったのだろう。ということはやっぱり自業自得。うぅ、後悔したって遅い。 「俺は、今年が最後の夏なんだ。出来る限りテニスにだけに集中したい」 不意にそれまでずっと微笑みを崩さなかった幸村先輩が真面目な顔つきへと変わった。洗練されたかのような空気に切原くんが息を呑んだのが伝わる。今、この瞬間だけは幸村先輩にとっての誠心誠意の本音なのだと言う事は分かった。 「中学最後の夏は正直悔いがないと言ったら嘘になる。あの夏だけは繰り返したくはないんだ」 緩く微笑んだ顔は悲しげで、これもきっと嘘は含まれていない。先輩の隣にいる切原くんの顔までもがどうしてか悔しそうに歪められたのも良い証拠だろう。そこまで悔むほどの何があったのかと純粋に疑問に思ったけれど、口にするのは思いとどまった。情に流されるなと冷静な心が叫ぶ。過去のことを知ることなどいくらでも出来る。調べることに関しては得意でしょ、私。 「・・・残念ですが、私にはその熱意にお答えするだけの理由がありません」 緩やかに首を振って拒絶を示す。幸村先輩も切原くんも選んだ相手が悪かった。これが普通の女の子ならそんな眼差しを見てしまえば心はぐらりと揺れてしまうだろう。それだけの力がある双眸と言葉だった。でも、残念。私はその程度で動かされてはあげない。あの学び舎で積んだ六年間は今もこの身にしっかりと刻まれている。見え透いた誘導にのってあげるほど私は優しくはないわ。 「もっと情に脆い子を誘っては如何ですか?」 言葉は確かに真摯だった。 でも、それすらも利用してマネージャーへと引きいれようとするやり方は気に入らない。 「・・・これ以上はお昼を食べる時間がなくなるから、今日はこれくらいで引こうかな」 一瞬の瞠目の後、ふわりと笑った顔はまるで諦めていなかった。そしてその表情通り、幸村先輩が発した言葉に諦めの文字は入っていない。こちらの示した意図に気付いたくせに引く気はないのはよほど自分に自信があるのだろうか。いい度胸だわ。 「また改めて勧誘に来るとするよ。赤也、その間もめげずに誘うんだよ」 「へ?・・・あ、はいっ!」 「それじゃあまた、さん」 にこりと笑って去っていく幸村先輩の背中はどこか余裕めいて見えた。 2011/04/17 |