頬を紅潮させた雷花がやって来たのはお昼休みに入って間もない時間だった。いつだっておっとりとした雰囲気で柔らかく微笑む彼女にしては珍しく少し興奮気味でどこかウキウキとした空気を感じる。機嫌が良さそうなことはすぐに気付いたけれど、よっぽど良いことでもあったのかな。二年生になり、新しいクラスにすんなりと溶け込んでいった雷花とお昼を一緒にとることは週に一度あるかないかの頻度。普通の女の子として過ごす彼女の、その交友関係を狭めてしまうことがないようにと配慮しての結果だ。今日は雷花と一緒に食べる約束をしていた日ではない。だから尚更に不思議でお弁当だけ取り出した状態のまま雷花を見上げた。 「あのね、をマネして私もちょっとだけ本気出してみちゃった」 「へ?」 その意味をすぐには理解できなかった。何度か頭の中で復唱し、咀嚼する。そして今の雷花の様子を気付かれないように窺った。未だ紅潮したままの頬は一種の興奮状態だからだと思っていたけどじんわりと汗ばんでいる額と鼻を擽った制缶剤の香りに気付いた時、それは運動直後だからなのだと知る。え、まさか・・・。過った予感が外れていればいいなと咄嗟に思った。 「それって、体育の・・・シャトルランのこと言ってる?」 「そうだよ。三郎には昔から運動関係は絶対に本気出すなって釘刺されていたけど、の記録を聞いたら私も頑張ってみようかなぁって思って」 「・・・」 当たってほしくはないことに限って当たるものよね。思わず頭を抱えたくなった私は悪くはないと思う。まさかこんなところに影響を及ぼすなんて。何も覚えてはいなくとも運動神経はやっぱり人並み以上なのね。そんな的外れなことを考えてしまう。これはもう軽い堅実逃避。それくらいは許して欲しい。当の本人は満足のいく結果に嬉しそうに頬を緩めている。それを咎めるつもりは勿論ない。それが彼女の実力の結果なのだから。むしろ一緒に喜んで褒めてあげるべきなんだろう。問題は、そんな雷花に本気を出すなと釘を刺した男の存在。十中八九文句を言われる。三郎がそうやって雷花に言い続けてきた理由も理解出来てしまうからこそ、今回は強く反論も出来そうにない。 「雷花、それ三郎に言っちゃダメだよ」 「うん、言わないよ。三郎の説教って長ったらしいから。・・・でも、」 「うん?」 「ずっと気になっていたんだけど、何で本気出しちゃダメなのかなぁって」 「・・・」 首を捻らせる雷花に答えを与えることは、もちろん出来なかった。三郎がどう言い聞かせたのかは知らないけれど、私は三郎ほど口巧者ではないから、下手に誤魔化そうとすればボロが出てしまいそうだったし、そもそもの答えを知っているのは雷花の中では三郎だけであって、あくまで彼女は私に意見を求めているだけ。だったら知らない振りをして逃げておくのが一番利口に違いなかった。さぁ?と首を傾げて苦笑する。どうせ三郎のことだから理由は有耶無耶にして、とにかく約束だけ取り付けたのだろう。迷い癖のある雷花だけど、一度頷いてしまえばよほどのことがない限りは曲げたりしないから。・・・今回のような場合は例外として。 「そうだよね。ごめんね、変なこと聞いて・・・でも、うーん・・・本当に何でだろう・・・」 「・・・それよりも雷花、そろそろ行かないと友達が待ってるんじゃない?」 「わっ!そうだった、怒られる!それじゃあ、またね!」 「うん、またね」 ひらひらと振られる手に振り返しながら慌てたように教室から出ていく雷花を見送ってから一息ついた。騙しているような気分に正直気持ちはうしろめたい。実際騙していることには違いないのだけど、そうするべきだとも思っている。知ってほしい、思い出してほしいという気持ちとは裏腹に、このまま忘れたままでいる事の方が彼女にとっては幸せなのではないかとも考える。 決して、綺麗だとは言えない記憶。笑っている時間よりも苦しみ、もがき続けた時間の方がずっとずっと長かった。優しい時代ではなかった、温かい人ばかりじゃなかった。戦が絶えなかった。自分の欲ばかりに目がいく人、目的の為ならば手段を選ばない人、人の心を忘れ野心に燃える人。そんな人たちによって明日を生きることも難しかった人達がたくさん存在した。とても惨く、残酷で渇ききった時代。たった一つの望みさえ叶えることが難しかった。 でも、だからこそ、笑い合えることの歓びを、仲間がいたことの幸せを強く感じることが出来た。得られたものと失ったもの、どちらが多かったのかと言われたらきっと失ったものの方がずっと多かった。けれど、得られたものの大きさは失ったものの大きさの比ではないことを私はちゃんと分かっている。それは昔の私では決して気付けなかったこと。『今』を生きているからこそ分かることが出来た。だから私は、この記憶を捨てたいとは思わないし、覚えていてよかったと思う。この記憶によって幼少の頃はそれは苦しめられたけれど、それでも一生付き合っていく覚悟はある。 けれど、全ての人が私と同じだとは思っていない。 私の歩んだ人生は、周りの友人たちと比べると日の光に照らされたあたたかな道であったと思う。三郎や八たちが歩んできた道はもっと暗く、大きな闇に覆われていたのだろう。逃げる事など出来ず、暗闇の中で必死にもがき苦しみ続けたのかもしれない。忍の道とはそういうものだ。私と彼らの道を比べることなど出来ない。比べられない。そこには大きな溝が存在している。そして、雷花も・・・いや、雷蔵も。彼も忍だったから。 だから。だから私には分からない。思い出すことが雷蔵にとっては良い事なのか、悪い事なのか。三郎は、それを望んでいないように思える。思い出すきっかけが訪れないように、その心が揺すぶられることがないようにとても気を遣っている。再会してからたった一年間だけれど、そう判断するには十分な時間だった。 (何を隠しているのだろう) 三郎は昔から雷蔵にべったりだったし、一際甘かった。彼にとって八や勘ちゃん達も大事な友人であったことは間違いないだろうが、その中でも雷蔵だけはやはり特別だった。今の三郎はその昔以上に雷蔵に関して気にかけている。それは雷蔵が女の子として生まれてきたからだとか、記憶がないからだとかそれだけじゃ済ますことが出来ない、そう思わせる何かを感じる。過保護っぷりは見ている分には呆れながらも微笑ましいような気がするのだけれど、やっぱり私の中では違和感が拭いきれない。この勘はおそらく外れてはいない。三郎がよく比喩する七松先輩が持つ動物的勘に似たものだから。 「おい、」 ハッとなって顔をあげればいつの間に来たのか不機嫌そうな三郎が立っていた。あと少しで何か掴めそうだったのに・・・内心で落胆した。それから三郎を見上げてうわぁ、とまたも心の中で呟いた。ものすっごく機嫌が悪い。予想していた以上の様子に頬が引き攣った。 「あー・・・情報がお早いことで」 「やっぱあの時本気で止めておくべきだった。お前、どう責任とるんだ」 「そんなこと言われてもねぇ。結果的に嗾けちゃったのは私だけど、でも本気出したのは雷花の意思でしょ?」 私がちょっと本気なんて出してあんな記録をたたき出してなければ雷花もあんな風に実力を見せることもしなかったでしょうけれど。でも、そんな事実を認めてしまったらそれこそ私が不利になってしまう。それに雷花のあの様子だといつかは三郎の言いつけを破っていたんじゃないかなぁ。 「大体碌に説明もせずに本気出すな、なんて言いつけるからいけないのよ。雷花、ずっと疑問に感じていたみたいよ。それに関しては三郎の責任じゃないの?」 つりあがった眉に険呑な眼差しが突き刺さる。普通なら怯んでしまいそうになる眸も私にとっては怖くはない。殺気を出していないから随分と緩く感じて、むしろ少しらしくないと思える。 「三郎は・・・雷花をどうしたいの?私にはそれが見えないよ」 「・・・」 「中途半端は雷花が悩む。それはあまり喜ばしいことじゃないよね?」 様々なものから彼女を護ろうとしているのに、肝心なところは曖昧に濁す。それは確実に彼女を惑わす。彼女の中の記憶がまっさらなままならばその程度はきっかけにもならないけれど、時折遠くを見つめては考え込む姿を私は何度か目撃している。その心の奥底にまで踏み込んだことはないから、これは単なる私の勘だけど、雷花はぼんやりと何かを感じているのではないか。例えば夢であの頃の出来事を見たとか、ふとした瞬間に私や三郎にあの頃の『私』や『三郎』を見たり、とか。実際、再会して間もない頃に「雷花はあの頃を覚えてはいないが、完全に忘れてしまっているわけではないようだ」と私に告げたのは紛れもない三郎だ。その頃はそんな瞬間を目の当たりにしたことがなかったから半信半疑だったけれど、今ならそれに頷ける。彼女は確実に、少しずつだけど私たちに近づいてきている。不破雷蔵という人を取り戻そうとしている。 それは、喜ぶべきこと? もちろん、ときっぱり言い切れないのは目の前の男の所為だ。 ねぇ、三郎は何を抱え込んでるの。 「そんなこと三郎が一番分かってる筈なのに、どうして、」 「」 息を呑んだ。感情のない声は冷たく鼓膜を震わせる。此方をじっと見据える眸が三郎の、今の感情を現わしていた。はっきりとした拒絶の、色。向けられたことのないその視線は、私が立ち入るべきではないところまで踏み込んでしまったからなのだろう。殺気を向けられるよりもぞっとするその表情を見つめ返しながらも引く気はさらさらなかった。 「三郎はずるい。自分は遠慮なく踏み込んでくるくせに私たちがそれをするのを嫌うよね」 「・・・だから?」 「だから私も遠慮しない。二人とも大事だから。どちらかが苦しむのだって嫌だよ」 苦しむのなら一緒。一人で抱え込むなんてことしないでと願う声は届いている?三郎が雷花を大事に思うように私だって雷花が大事だ。でも、同じくらい三郎も大事なんだと分かってるでしょ。 「お前は、相変わらずお人好しだ」 「何とでも。・・・でも、今日は此処で引いてあげる。面倒な人が戻って来たみたいだし」 研ぎ澄まされた聴覚が、一つの足音を拾い上げた。最初は彼から逃げる為に彼の気配を窺うことが多かったけど同時に足音だって覚えてしまった。そして徐々にはっきりと感じる気配。三郎も察したようで「ああ」と納得したように頷き、それから訝しむように眉を寄せた。私もほぼ同じタイミングで気付いた。彼の隣に気配がもう一つ。足音も彼のものに合わせているから連れ立って歩いているのは分かるけれど、授業終了と同時に隣の席である切原くんは一人で購買に駆けて行った。誰を連れて戻って来たのだろう。その彼の足音はよく聴けばいつもよりもどこか落ち着きがない気がする。良い予感がしないことだけは確かだ。 「しつこい勧誘だな」 「・・・嬉しくないことにね」 溜息を落としたところで教室の入口で足音がとまった。立ち止る意味が分からずそっとそちらを一瞥し、見るんじゃなかったと心底思った。切原くんの隣には物腰の柔らかそうな男子生徒が一人。どことなく見たことのある顔。引き攣ったような笑みでその人を見上げる切原くんを見れば先輩というのは分かるけれど、どこで見たんだっけ。そんな風に考えこんでいればその先輩の眸が唐突に此方へと向けられた。ぱちりと目が合うとにこりと綺麗に微笑まれる。 「へぇ、部長自らお出ましとは本格的に気に入られたな」 「え、部長?」 「あれはテニス部の部長だ。名前までは知らないが」 三郎の言葉で思い出した。ああ、そうだ。私が彼を見たのはテニス部の成績が表彰された時だ。その代表として檀上に上がったのが確かあの先輩だった。なら、三郎の言う部長という情報はまず間違いないのだろう。入口から私の名前を呼びながら手招きをする切原くんの所為で逃げ道もなさそうだし。一瞬にしてざわついた教室内の雰囲気にも密かに驚きだったけれど、今はそんなこと気にしていられない。 「面倒だなぁ」 諦めて立ち上がる。 そんな私を小さく呼びとめる声がして三郎を振り返った。 「、気をつけろよ」 意地の悪い言葉と表情が待っているのだと思ったら反してとても剣呑な眼差しがそこにあった。 私が三郎の言葉の意味に気付くのはそれからすぐのことだった。 2011/04/03 |