その教室からは放課後にも関わらず、人の声がよく響いていた。小さな雑音と、女の子達の楽しそうな声。三郎が言っていたのは賑やかなこの教室に間違いないのだろう。私の耳は女の子達の声に混じって聞こえてくる男子生徒の声を拾い上げていた。聞き覚えのある声。のんびりとしたその口調は相変わらずだと思いながら扉の前に立った。情報提供をしてくれた三郎は、放課後になってすぐに下校していった。今日はバイトが入っていてどうしても外せないらしい。日を改めるか、と聞かれたけれど私は緩く首を振って一人で会いに行くと告げた。
開けっ放しだった扉から教室の中の様子が窺えた。真っ先に視界に入ったのは思っていた通りの金色の髪。椅子に座る一人の女子生徒の後ろに立ち、髪を結いあげている。その周りを数人の女子生徒達が囲って興味深そうに彼の手元を覗きこんでいた。彼の指先の動きがとても繊細で鮮やかだったから思わず魅入ってしまう。囃したてる女の子達の声に緩やかに微笑みながら「出来たよ」と告げる大きくもないその声は教室に響いた。相変わらずの腕前。いや、私が最後に見た時よりも上達したその腕はこの時代でも変わらないのだと思うと少しだけ嬉しくなった。楽しそうな光景をこっそりと覗き見していれば、気配を悟られてしまったのかパッと此方を向いた双眸と目が合った。

「・・・・・・久しぶり、ちゃん」

まん丸に見開かれた眸はそれからゆっくり時間をかけて細められ、小さく首を傾げながら笑う。私がこの場にいることへの驚きはどこへ飛んでいったのか此方を見つめながらにこにこと笑うタカ丸さんに、私は思いのほか強いられていた緊張がしゅるしゅると解けていくのを感じた。三郎の気遣いがかえって仇になったような気分だった。彼の周りに集う可愛らしい女の子たちの視線が痛い。偏ったその視線の意味を正確に捉えながらとらえず無視することにした。せっかくの再会の場に不快な感情は持ち込みたくはない。

「お久しぶりです、タカ丸さん」
「変わらないねぇ、ちゃんは」
「タカ丸さんも」

女の子たちに一つ、二つ声をかけてから入口まで来たタカ丸さんは自然な動作で私の髪を一房手に取った。これが自然に出来るのはタカ丸さんだからこそ。慣れたようなその行いは彼にとっては何の下心もない、単なる髪の手入れ具合を見るためのもの。だから私も特に何も言わず黙って受け入れる。これでも髪には気を遣っている方なので酷い評価が待ち受けていることはないと思うけれど、その道を目指す人から見たらどうなのかは女としてはやはり気になるものである。

「うん、やっぱりちゃんの髪は綺麗だねぇ。しっかり手入れされている」
「良かった・・・ありがとうございます」
「昔から綺麗だったもんね。また結わせてもらってもいい?」
「私の髪でよければいつでも」
「ほんとに?じゃあ、ちょっと待ってて!」

タカ丸さんはそう言うや否やこそこそと囁き合いながらこちらを様子見していた女の子たちの元に戻り、何やら説明を始める。「ごめんねぇ」という単語が聞こえてきた事に怪訝に思いながら見守っているとひょいっと鞄を肩に提げ女の子たちに軽く手を振りながらまたこちらまで戻ってくる。

「お待たせ。じゃあ行こっか」
「え、もしかしなくても今から?あの子たちはいいんですか?」
「うん、ちゃんと説明してきたから大丈夫だよ。ちゃんと話す方が大事だからね」
「・・・」

さらりと爆弾を落とす。ぽん、と背を叩かれタカ丸さんの隣を歩きだしながら、先ほどの彼の発言があの子たちにまで届いてないといいなーと無駄なことを思う。放課後という生徒が減ったその場で彼の声はよく通っていたから、間違いなく聞こえていたことだろう。面倒なことにならないといいなぁ。タカ丸さんには気付かれないようにはあ、と溜息を一つ吐きだした。





学校を出て連れてこられたのはタカ丸さんのお父さんが経営している美容室だった。少し古風なその外装は若者受けをあまりしなさそうに見えるが、入ってみると思っていたよりも年齢層はずっと若い。内装も外装同様に和をテイストとしているようだけどとても凝っていて綺麗だと思えるし、どこか落ち着ける雰囲気を感じさせる。年代問わずに気に入られるのではないだろうか。おじさまに一言断りを入れて美容室の一角を借りたタカ丸さんは早速とばかりに鋏を取り出した。切り揃えるだけだから、と前置きを入れられるのに笑って頷きながらあとはもう任せることにする。
一年生の時に海外留学をしていた為に留年、その次の年は美容師の修行で学校を休み続けて登校日数が足りず留年。今年で18歳になるタカ丸さんが高校一年生として通っている理由を聞いて苦笑を零すしかなかった。理由はどうであれ、年上なのに一つ下の学年に在籍するというその状況はあの頃と同じ。不思議なものだ。もっと早く気付けていたらと私の髪に鋏を入れるタカ丸さんを鏡越しに見つめながら思う。登校日数は少なかったとしても昨年は同じ校舎内に居たというのに。こういう時、生徒数の多さと広大な敷地を持つこの学校は都合が悪い。

ちゃんは今もメイクとか好きなの?」
「はい。メイク道具は一式揃えちゃってますし、シュシュやバレッタやら色々集めるのが趣味になってますね」

私の部屋の一角はそれはもうすごくキラキラしている。自分で使うことは滅多にないのに、可愛いと思ったり新作を見つけるとついつい買ってしまうこれは衝動買いと言うよりは一種の職業病だろう。溢れ返るほどの趣味の産物はいっそタカ丸さんに提供した方が本来の意味を成すのではと思うほどの数だ。

「本当に変わらないんだね」
「そうですね。それに走ることも今でも好きですし」
「え?今も走ってるの?!」
「はい。早朝と夜に、実は。もう日課ですね」
「凄いなぁ」

首を振ることが出来なかったから苦笑してそれをやんわりと否定した。別に凄いことじゃない。私はただ、変わってしまうことが怖いだけだ。生まれ育った環境で多少性格に変化はある。それはしょうがないことだ。でも、それ以外では変わりたくはない、あの頃のままの私でありたいと願う自分がいる。おかしいことかもしれない。私は『今』を生きているのに。でも、忘れたくはない。あの頃の『私』も今の『私』も同じであることには変わりないのだから。もちろん、区別はちゃんとついている。過ごす時代が違うのだからそれにちゃんと適応した『私』でなければならないことは分かっている。けれど・・・、昔に縋るのは今の私にないものを昔の私が持っていたから。自由に駆け回ることの出来た身体、尊敬する先輩、自慢したくなるほど可愛らしい後輩、かけがえのない友人、それから、誰よりも大事だった人。

「じゃあ、気持ちは?あの頃のまま?」

くるくると器用に鋏を回す指先の動きに気をとられて、反応が一瞬遅れた。鏡越しに私を見つめる表情はとても穏やかで、それなのに眸だけがはっきりと答えを待っていた。この人はやはり、こういう事に関しては鋭敏で時にあっさりと痛いところを見抜く。避けられる話題ではないと思っていたけれど話の持って行き方がとても自然で巧い。見習いたいくらいだった。こういうことになるから三郎も前以って警告したのだろう。あれはタカ丸さんとはまた別で抜け目のない男だから。

「そうだとしたら、どうしますか?」
「どうもしないよ、聞いてみただけ。俺は兵助くんどころか他の子がどうしているか全く知らないからね」

さらりと彼の名前が出る。そう、これだ。三郎が最も警戒していたのはタカ丸さんのこういう不意に動揺を誘うところ。こういう時のタカ丸さんは本当に読めない。ぴくりと肩がその名に反応してしまったけれど、とても小さな変化だったから気付かれてはいないはず。そうだといいなと思う。

「・・・三郎と雷蔵はこの学校にいますよ。同級生です」
「ええ?!不破くんと鉢屋くんが?」
「ただし、雷蔵は女の子で記憶がありませんけど」

ビックリしたタカ丸さんの声はよく響き、店内にかかっていた音楽を掻き消してしまうほどだった。他のお客さんもいたのでおじさまに怒られたタカ丸さんは縮こまって謝っていた。そんなに、驚くことでもないだろうに。雷蔵が女の子として今を生きていることは衝撃的かもしれないけれど、タカ丸さんは食満先輩と善法寺先輩に既に出会っている。雷蔵と同じように女の子として生きている善法寺先輩は良い前例であり、その可能性という視野は持てるはずだ。

「中在家先輩、七松先輩、八左ヱ門、それから千鶴先輩は東京の青春学園に。但し、七松先輩に記憶はありません。立花先輩、勘右衛門、滝と喜八郎は氷帝学園にいます。そのうち滝と喜八郎は女の子で、滝には記憶がないそうです」

指折り数えながら、かなりの人と再会しているのだと確認する。滝と綾部は情報だけで実際に会ってはいないけれど、勘右衛門が話していたお茶会が実現されるなら近いうちに会えるだろう。でも、だからかな、分かってしまう。欠けている人に。それはそう、私にとって、なのかもしれないけれど。

「あの二人が女の子かぁ。変な感じだけど違和感はないなぁ」
「ですよね、私も同感です」
「・・・あれ?でも、兵助くんは?」

そして、タカ丸さんも当然そこには気付くだろう。だってタカ丸さんは彼と同じく火薬委員。気付かないはずがない。
素朴な疑問のように聞いてくるタカ丸さんに私は目を伏せた。

「・・・さぁ」
「さぁって、ちゃん」
「だって知らないんです。答えようがないでしょう?」

けろりと答えて笑った。純粋な質問が心を深く抉っていく。でも、傷つくことはおかしい。そんな資格は私にはないのに。彼の手をとらなかったのは私。自分から離れたくせに、何故勝手にまた会えることを期待して、そして現れないことに落胆しているの。身勝手もいいところだ。けれど、それでも会いたいと思う気持ちに嘘もつけない。だからこの程度の痛みくらい甘んじて受け入れる。タカ丸さんに会うと決めた時からそれは覚悟していた。三郎には感謝しなくちゃね。覚悟する時間と猶予を与えてくれたのは紛れもない彼だから。それから事前にその情報を教えてくれた食満先輩と善法寺先輩にも。大丈夫。何も辛い事なんてない。私はとても恵まれている。だって一人じゃないもの。

「そっか。でも、それでも、ちゃんの気持ちは変わらないんだよね」

私の心情を読み取ったかのように優しく髪を梳いていく指先。この人は本当にどこまでも読めなくて困る。確かめるような問いかけはまるで私を試しているよう。逃げだすことは許さないよ、とでも言いたげに聞こえる。読み取れないタカ丸さんの表情の代わりにワックスを手にして軽くまとめるように仕上げていく指先を追いかけながら私はふとある日のことを思い出す。

『俺はの髪好きだけど』

私のそれよりもずっと長くて艶やかな黒い髪を持っていた。とても綺麗だと思って、羨ましいと思った。そこらの女の子よりもずっと綺麗なその髪は、けれど嫉妬の対象でもあって。同じ委員会に髪結い師が入ってから一層艶が増したように見えるその髪を見つめて少し不機嫌になっていた私に、何気なく言われた言葉。恋愛に関してはめっぽう鈍くて、気の利いた言葉なんてそうそう囁かない彼の、その一言がどれだけ嬉しかったか、貴方はきっと知らないことでしょう。少し天然気質のある人だったから、もしかしたらその延長での言葉だったかもしれないけれど――そういう意味ではさらっと爆弾を落とす人でもあった――とにかく、その一言は私にとっての特別だった。言葉は沢山もらったけれど、印象として残っていたのは初めて褒められたから、なんだろうな。

「変わりませんよ、私の気持ちは。ずっと」
想いはずっと、あの頃のまま。

この髪をまた好きだと、そう言ってもらえる日が来るのなら。
望めるかも分からない未来を思い描いて、頬を緩めてしまう私は滑稽だろうか。





2011/03/27