授業で何が一番好きかと言われたら「体育」と迷わず答える。 誰に何と言われようともそこは素直に答える。そんな質問をしてくるのはそこそこ親しくなった女の子達であって彼女たちは私の答えに意外そうに目を丸くする。全然そうは見えない、と口々にそう零す彼女たちに私はよく苦笑する。自他共に認めるほど地味に学校生活を過ごしている私はどう見たって運動好きには見えないのかもしれない。それに体育が好きだからと言って、張り切って授業に取り組んでいるかと言ったらそうでもない。本気は出せずとも身体を動かせればそれでいい。むしろ授業なのだからその程度の方がいいだろうと思っている。 だから、同じ答えを切原くんにしたところ、案の定彼はあからさまな程に驚いていた。 そんなに、驚くことでもないと思うんだけどなぁ。 合図音が鳴る、それと同時に一斉に走り出す生徒を見つめながら思う。 この時期の体育の授業と言えば、スポーツテストに向けての練習とその測定ばかり。今日もそう。現在20メートルシャトルランの測定中だ。体育館の半分を男子が、残りの半分で女子が20メートルという短い区間を行ったり来たりする。体力の差もあって男女分かれているが、合図音は同じ。回数が増えていくごとに女子の脱落者が圧倒的に増えていく。運動部に所属していない女子の体力などたかが知れている。私のペアの子も序盤に脱落してしまい、回数を数える必要は早々になくなってしまった。 声援が飛び交う中、目の前の女子よりも男子の方が気になってそちらへと視線を向ける。別に咎められることはない。何たって大半の女子が同じように男子の方を見つめては声援を送っているのだから。その原因はまだまだ余裕の表情で――笑みすら浮かべて――走っている切原くんがいるから、だろう。切原くん、って名指しで応援している子がいるくらいだし。あまりにも大きすぎるその声援に一生懸命走っている他の生徒が少しだけ哀れに思う。 合図音の間隔は回を増すごとに短くなっていく。それに伴って少しずつ男子にも脱落者が増え始める。合図音ギリギリでラインに辿り着く生徒が増える中、楽々と走る切原くんはなるほど、確かに優秀な成績を残しているらしいテニス部に所属しているだけあった。 その切原くんよりも少し奥で一人飄々と走っている男がいる。切原くんへの声援に混じってその男への声援がちらほら聞こえた時は静かに目を瞬かせた。彼と同じクラスの女子生徒達だろうか。体育は基本的に隣のクラスとの合同授業。そしてこのシャトルランは男女合同で行われることは昨年経験済み。クラスの枠を飛び越えて切原くんへの声援が多いのにも驚きだったけれど、それ以上に三郎へ声援が送られるのも予想外だった。 でもまぁ黙っていればそれなり?授業をよくサボっているくせに成績は優秀、運動神経は当然抜群であるから人気が出ることも頷けると言えば頷ける。でも、彼の性格をよーく知っている私としては首を傾げたくなる光景ではあったけど。それにしても相変わらずやる気のなさそうな眸。そろそろ適当なところで脱落しようと考えている頃だろう。 脱落者は続出し、男子の残りの人数も数えられるほどとなってきた。ちなみに女子はこの時点で既に全滅。既に男子の応援ムード。男子というか、切原くんと言うか。彼がクラスメイト達から好かれているのは知っていたけど、クラスの枠を飛び越えてここまで女の子に人気はあるなんてビックリだった。顔は整っている方だとは思っていたし、愛嬌はあるからそこそこモテるだろうなぁとは思っていたけれどここまでとは。少し・・・いや、かなり面倒な人と隣の席になったのかもしれないと黄色い声援を聞きながら思った。 (あ、脱落した) あぁ、と一部から落胆の溜息が洩れる。ちっとも疲れた様子を見せず、三郎が離脱する。ゆっくりと歩きながら壁際に腰を下ろした。ずっと送っていた私の視線には当然気付いていたのか、ちらりとこちらを一瞥する。涼しげな顔はまだまだ走れたことを物語っていた。 結局前半組で最後まで走っていたのは切原くん。100回を余裕で越えた彼は盛大な拍手で称えられていた。謙遜どころかそれが当然とでも言うように受け止めて笑みを浮かべる切原くんはよほど自信があったのだろう。自意識過剰じゃない、実力は折り紙つき、と言うことか。 五分の休憩の後、後半組の測定が始まる。 ゆっくり立ちあがりスタートのラインに立ちながら、うずうずと疼きだした対抗心に胸を抑えた。自然と持ち上がる唇を隠しはしない。きっと誰も私など見ていないから。身体を動かせるだけでも楽しいとは思う。もちろんそうなのだけど、全力を出せたらそれはどれだけ清々しいことか。特に、走ることに関しては。だって、昔は本気で走らなきゃ先輩になど追いつけやしなかった。 ・・・久しぶりに、少し本気を出してみようかなぁ。 横一列に生徒達が整列し、スタートを待つ。 切原くんの走りにすっかり触発されたみたい。思いっきり走りたい気分。全力は出せなくても、いつもよりもやる気は出してみたって悪くはない。そんな気持ちでスタートと共に走り出した。 50回を過ぎた頃には女子はほぼ全滅。残っているのは私以外にもう一人。真っ直ぐ前を見据えて走っているその女子生徒の横顔は疲れてはいるようだけど、バテてはいないみたいだ。確か、バスケ部に所属している子だったっけ。走りっぱなしのスポーツなだけに体力には自信がありってところかな。男子はさすがにまだ三分の一ほどは残っている。私も、まだまだ余裕はある。息も乱れていないし、合図音までに余裕でラインに辿り着ける。頃合いを見計らって離脱するべきなのだろうけどここまで走っているんだし最低でも女子のトップは狙いたいなぁーとか、そんな欲が出てきている。 ただ、なぁ。周りの生徒から距離をとるように壁に凭れて一人座り込む三郎を一瞥する。そろそろやめておけよ、と言外に告げてくるのをスル―してきた結果。背中に刺さる視線が次第に強くなっていく。 70回を越えた頃になってバスケ部所属の彼女のペースが落ちてきた。苦しそうな呼吸を繰り返しながら、それでもまだ食らいついている。私がまだ残っていることが彼女の対抗心に火をつけているのかもしれない。彼女は時々確認するように私の様子を窺っていた。そろそろ離脱する頃合いなのかもしれない。それは分かってる。でも、私はまだ余裕で走れる。ここで諦めてしまうのはもったいない。 「・・・たまには羽目を外したっていいでしょ」 小さな呟きは見えない音となって少し遠くの三郎へ届く。暫くして、ずっと背中に受けていた視線の重圧がふっと消えた。切り返しになったところで、真正面から三郎を窺えば呆れ返った眸が勝手にしろと告げていた。ニッと唇が弧を描く。そうこなくっちゃ、面白くないわ。 踏み込む足に力を込め、スピードを上げる。合図音ギリギリにラインへ着くよう調整していたけれど、それよりも少し早く着けるように調整する。まだ、余裕があることを相手に伝えるように。挑発するのはどうかと思ったけれど敬意を込める意味でもまだ走れるのだということは伝えたかった。 それから彼女が脱落したのは82回目に差しかかった時だった。ラインに辿り着くなりそのまま座り込んだ彼女の呼吸は荒く、相当限界まで走っていたことが分かる。心の中で盛大に拍手を送った。少し苦しくなっただけで諦めてしまう他の女子生徒とは比べようもない。 残ったのは私と、男子の方で四人ほど。生徒達の間で先ほどから小さなざわめきが起きている。女子の方で私一人が残ったことでそれは更に大きくなったように感じる。誰も私が最後まで残っているなんて思ってもいなかったに違いない。 結局100回を越えるまで走り続けていた私は、三郎の視線が再び痛くなってきたところでリタイアした。送られる拍手に思わず頬が緩む。全力を出せたわけじゃないけれど、でも久しぶりに楽めた。男子生徒がまだ一人走っていた為に注目はすぐに逸れたのでその間に壁際にまで移動して座り込んだ。疲労感はない。多少息は上がったけれど、この程度でバテるほと柔じゃない。むしろまだまだいけたくらい。 「!」 「・・・切原くん」 女子の方にまでやって来た彼はなにやら興奮した様子に見えた。 「すっげぇーな!体育が一番好きってのは本当だったんだな」 「まぁ・・・切原くんこそ、男子トップだなんて凄いね。おめでとう」 今もまだ一人走っているが、あの様子からして切原くんがたたき出した記録にまでは達しないだろう。もしかしたら学年トップってこともあり得るかもしれない。それくらい切原くんは一人だけずば抜けて記録が良かった。三郎が、本気を出していたらまた違っていたのだろうけど。 「あれくらい余裕だっての」 誇らしげに鼻を高くして笑う。切原くんのテンションが高いのは構わないけれどその所為で周りの生徒がこちらに気付いてちらちらと視線を送ってくるので私としては居心地が悪かった。彼は気にも留めていないようでお構いなしでにこにこと笑っている。 「なぁ、お前に頼みがあるんだけど」 「・・・・・・なに?」 何だろう、嫌な予感がする。 思わず引き気味になったのは私の勘がこの先を聞かない方がいいと判断したから。 「テニス部のマネージャー、やってくれないか!」 ぱん、と両手を合わせて懇願される。その途端どこからかどよめきが起きた。 その意味も分からぬまま私はぽかんと切原くんを見つめ返すしかない。 「テニス部?」 「そっ!うちの部、今マネージャー居なくってさ、ずっと探してたんだよ」 「だからって、何で私・・・」 「はうちの部に興味ないみたいだし、それに今の見てたら体力的にも問題ないし」 そりゃ興味はない。あるわけがない。でもそれだけで決めてしまってもいいものなのか。 軽率すぎるんじゃ、という言葉は突如吹かれた笛の音によって掻き消された。 「切原ー、部への勧誘は構わないがそういうのは授業終わってからしろよー。集合だ、戻ってこい」 男子担当の体育教師だった。 最後まで走っていた生徒はいつの間にか測定を終えたらしく生徒達は教師の前に集まり始めていた。 「へーい、んじゃまたあとでな。ちゃんと考えといてくれよ!」 彼は私へと軽く手を挙げてようようと集合場所に走っていった。 201/03/05 |