返却されたテストを見て切原は目を丸くした。直前に借りたノートのおかげで彼にしてはそれなりの手応えはあった――つまり、赤点は免れるくらいの点はとれたと思っていたのだったが、これは予想以上の出来だ。切原のテスト用紙の右上に赤字で書かれた点数は64点。これは切原にとっては類い稀な高得点である。例え平均点を下回っていようとも彼にとっては高得点に違いなかった。 「良かったね」 席に戻って放心状態で用紙を見つめている切原に隣から声がかけられる。ほんの数日前の席替えで隣の席になったばかりのがじっとこちらを見ていた。切原の手に持つ用紙をちらりと一瞥してにこりと微笑む。 「その様子からすると点数、良かったんでしょ?」 「あ、ああ。のおかげだ」 「別にそんな。切原くんがちゃんと覚えようと頑張ったからでしょ」 おめでとう、と微笑み付きで褒められぴくんと切原の肩が小さく跳ねる。幸い、教師に名前を呼ばれそちらへと意識が移った為にには気付かれてはいなかった。テスト用紙を受け取りに教壇へと向かう後姿を見つめながら切原はホッと胸をなでおろした。 切原は隣の席ののことを地味で大人しい、一言で言うのなら根暗な生徒だと思っていた。 クラスの輪に混じることは少なく――切原の知る限りでは――いつも一人で過ごしている。どこか独特な雰囲気を醸し出している彼女には近づきがたいというクラスメイトは多く、浮いた存在だった。友人たちが切原の席に集まって騒いでいてもは反応一つ示さない。まるで関心も示さず携帯を弄っているか小説を読んでいるかのどちらか。かといって女子生徒達と仲が悪いわけではないようだし、嫌われている様子もない。ただ単純に一人が好きな、クラスには必ず一人は存在するような奴だと思っていた。 だから切原も基本的に話しかけようとはしなかったし、向こうが関心を示さないのだからこちらも無視を決め込んだ。ただ、バカみたいに騒いでいる時に隣で空気のように居座られるのはちょっと鬱陶しいなと思っていたくらいだ。 でも、まさかそれを見透かされるとは思ってもいなかった。興味のない振りをしてじっと観察されていたのかと、そんな疑いすら持ってしまいそうになるほどの指摘は的確だった。切原に柳先輩のようだ、と思わせるほどに。しかし、彼女は柳のような性格ではないし、感情を読ませないような達人でもない。むしろ接してみるところころとその表情は変わる。周りにいる女子生徒と何ら大差ない。それまで感じていた話かけ辛さは微塵にも感じない、むしろ喋っていても悪い気はしないくらい話しやすかった。 返却された用紙を片手に席へと戻って来たの表情はどこか嬉しそうだった。一見すると教壇に向かう前と変わらないように見えたが微かに緩んだ口元が喜びを示していた。英語が大の苦手な切原がテスト直前に見ただけであれだけ高得点が取れたのだ。悪い結果なわけがないだろう。丁寧に用紙を折り畳むの姿に自然と笑みが浮かんだ 「赤也、お前英語のテスト頑張ったみたいだな」 放課後。部室に入るなり柳に声をかけられ、反射的にぎくりと肩を揺らす。話題が話題なだけに切原にとっては条件反射というものだ。しかし、柳の言葉は切原を責めたものではない。そのことにホッとしつつ自分のロッカーへと移動する。 「そうなんっすよ!つーか柳先輩、情報早すぎじゃないっすか?」 テストが返却されたのは午前の英語の授業の時だ。嬉しさのあまり、クラスメイト達にはテストの点について吹聴して回ったが上級生のクラスには赴いてはいない。だというのに柳は赤也の点数を知っているらしい。この短時間で情報を集めてしまえるのは柳にしかなせない所業だろう。柳がふっと不敵な笑みをみせる。さすがテニス部の参謀と言ったところだ。 「なに赤也、赤点じゃなかったのか?」 ネクタイを緩めていたら、頭の上に腕が乗せられ、そこにぐっと体重がかけられる。遠慮も何もないそれに潰れたような声が切原から零れた。僅かに前屈みになりながらその腕の正体を睨みあげる。切原相手にこのようなことをしてくる部員など限られている。 「丸井先輩!重いっすから退いてくださいよ」 「珍しいじゃん、お前いっつも赤点で追試なのに」 ニヤニヤと笑う丸井は切原の話など聞いていないかのように勝手に話を進める。この先輩はいつもそうだ。中等部からの付き合いであるがその分遠慮がない。もっとも、中等部の頃だって遠慮してくれた試しなどなかったが。そしていつもの光景であるから誰も気にとめない。しかし、この話題に他の部員も興味を示したのは確かだった。 「柳くんが褒めるほどとは、よほど良かったのですね」 密かに丸井との攻防戦を繰り広げていた切原は既に着替え終えた柳生の言葉に、するりと丸井の腕から逃れて顔をあげた。普段叱られてばかりの切原にとっては褒められると言う事にあまり慣れていない。柳生の言葉に素直に照れて嬉しそうに笑う彼はまだまだ幼さを残していた。そんな事を先輩メンバーが思っていることなど露知らずにこにこと柳生に寄っていく。 「そうなんすよ!俺、あんな点数久しぶりにとりました」 「それほどですか?それは頑張りましたね」 「甘いのう柳生、赤也の良い点は俺たちにとっては普通ぜよ」 くそがつくほどに生意気ではあるが、基本的に素直な後輩である。嬉しそうな切原につられて眼鏡の下の柳生の眸が柔らかく細められた。 しかし、そこに水を差したのは柳生の隣でこちらも着替え終えてベンチに座り込み携帯を弄っていた仁王だった。くつくつと笑う彼は切原をからかう気満々の様子で敢えて割り込むことが多い。しかしまだまだそのことに気付かない切原はムッと顔を顰めて仁王を見上げた。 「何か文句でもあるんか赤也」 「・・・っ別に」 口では仁王に叶わないことは切原も重々理解している。それは中学の間に嫌というほどに実感し、学習した。それでも気の短い切原は分かってはいてもついつい仁王の口車に乗せられてしまいそうになる。喉まででかけた文句を寸でのところでぐっと堪え、睨みあう。これもまた日常よく見られる光景なので、気にとめる者はいない。あまりにも長引けば見兼ねた柳生か柳が割って入ってやめさせるだろう。 しかし、今回はそうするまでもなく、別の声によって睨みあいは終わった。 「何をやってるんだい?」 穏やかな、それでいて威厳さえも含まれた声。 その場の空気が一瞬にして変わる。 「精一、弦一郎」 「赤也、お前は着替えもせず何をやっとるんだ!」 「げっ」 真田の声に切原の顔が一気に青ざめる。毎度のことながら叱られるのは彼の役目である。軽く肩をすくめ、するりと逃げる仁王は器用としか言いようがない。いそいそと自分のロッカーの前に戻る切原は真田の声に逆らえる気がしない。中学のころからの習慣とは恐ろしいものである。 「まぁ、そう怒ってやるな弦一郎。むしろ今日は褒めてやるべきだ」 「む・・・どういう意味だ、蓮二」 「何かあったのかい?」 くすりと微笑みながら一連のやり取りを見ていた幸村が不思議そうに柳へと問いかける。 「この間、二年生は英語の復習のテストがあると話していただろう」 「ああ、赤也の為に内緒にしておこうと決めていたテストのことか」 やっぱ知ってたのかよ。 二人のやりとりに切原は着替えの手を止めずにげんなり肩を落とす。 「今日、そのテストが返却されたのだが見事赤点を免れ、おまけに過去の英語のテストの中でもベスト3に入る高得点をたたき出した」 「・・・ほう」 「へぇ、それは凄いね。よく頑張ったじゃないか、赤也」 優しげな微笑が切原へと向けられた。 幸村に褒められることも滅多にない切原は居心地悪そうに視線を逸らした。しかしその口元は心なしか緩んでいる。褒められ慣れていなくとも、悪い気などするはずがない。 「ま、高得点って言っても平均点以下じゃがの」 「そうそう。赤也にしては、だよな」 からかい足りなかったのかまたも邪魔をした仁王に今度は丸井も乗って来た。この二人の組み合わせほど絡まれると面倒で厄介なものはないと切原は身をもって知っている。二人して性質が悪い。普段は特別仲が良いというわけではない癖に切原をからかう時だけは無駄に結託してくるのが仁王と丸井である。 「二人ともその辺にしておきなよ。・・・それにしても赤也、テストの事知らなかったのによく良い結果が出せたね」 茶々を入れる二人を窘め、幸村が話を聞いた時から疑問に思っていたことを聞いた。さすがの仁王と丸井も幸村の言葉には大人しく従い、可愛い後輩をからかうのと一時中断した。 「ああ、それは俺も気になっていたな。普段の赤也ならば96%の確率で赤点になっていただろう」 96%って・・・そんな高い確率で、と思わないでもないが、彼女とのあのやり取りがなかったら確実に赤点だったと分かる赤也はぐうの音も出ない。幸村や柳だけでなく、その事に関しては他のメンバーも気になったのだろう、今や視線は赤也に注がれていた。 「それはっすね、その、が・・・」 「?誰だよ、そいつ」 「あ、いや・・・隣の席の奴が英語のテストがあること知ってて、そんで俺にテスト対策用のノートを貸してくれたんスよ」 そう言えば彼女から借りたノートを切原はまだ返していなかった。しかも、彼にしては珍しく鞄の中にしまい込んでいたので、ロッカーから取り出して幸村へと渡した。勝手に見せるのに躊躇したが、彼女なら別に怒ったりはしないだろう。何となくそんな気がする。パラパラと彼女のノートを開いて見つめる幸村に関心を引かれたのか柳もそのノートを覗きこむ。 「要点が丁寧に分かりやすくまとめられている・・・それに字も綺麗で見やすいね」 「ああ。これならば付け焼刃にしてもそれなりに良い点がとれるだろう」 自分のノートでもないのに、審判を待つかのように身を固くして見守っていた切原は安堵した。 「そうなんすよ!もーほんと見やすくって助かったっす」 「何を喜んでいる赤也、それはお前の実力とはいえんだろうが」 「うっ・・・真田副部長・・・」 「実際、お前はそのノートを見せてもらっていなかったら赤点だったのだろう」 徐々に気を良くしていく切原に真田の言葉が突き刺さる。 否定が出来ない切原は押し黙るしかない。 「全くお前は、普段からしっかり勉強しないからそんなことになるのだ、たるんどる!」 良い点をとっても怒られる。もしかしたら切原はこれまで真田に褒めてもらったことは一度もないかもしれない。いや、褒められたらそれはそれで気色悪いと感じてしまうのだけれど。しかし、労いの言葉くらいはくれたっていいのに。 「弦一郎、確かにノートを見せてもらったことは事実だが、点をとれたのは赤也が必死に覚えたからだろう」 「蓮二」 「先ほど付け焼刃でも良い点は取れると言ったが、赤也の場合ただノートを見ているだけでは絶対に点はとれん」 こういう時の真田を宥められるのは幸村か柳しかいない。 珍しくもフォローに回ってくれた柳にじんと胸が温かくなる。 「そうだね、蓮二の言うとおりだ。実力とは言えないが赤也が頑張ったのも事実だ」 閉じたノートは切原へと返される。幸村がそう言ってしまえばそれ以上は真田も黙るしかない。不服そうな真田とは対称的に一安心している切原を見て静かに微笑みながら、部員全員を見回した。 「話は変わるけど、マネージャーの件の方はどうだい?」 現在、テニス部にマネージャーは存在しない。昨年、在籍していた女子生徒は三年生だったので先輩部員達と一緒に夏を終えて引退してしまった。その時からずっと空席のままだ。募集は続けているが、見かけよりも重労働のマネージャー業をこなせる生徒が現れず、いたずらに時間だけが過ぎていく。マネージャー不在でも部活動はこなせるがより集中してテニスに取り組みたいと思えばやはりその存在は必要不可欠だった。特に幸村達三年にとっては、最後の年である。悔いを残さずにテニスをする為にもなるべく早くマネージャーをやってくれる生徒を探したかった。 幸村は新学期を機に有能なマネージャー候補を探すよう部員達に命じた。しかし各々の反応を見ると結果はいまいちのようらしい。そういう幸村も目ぼしい候補は見つけられていない。気まずい雰囲気が流れ出すのを振り切るように幸村は口を開く。 「そう簡単には見つからないとは思っていたけど、難しいものだね」 「やりたいって奴はいるんだけど、その目的が見え見えすぎるからなぁ」 丸井がぽつりとぼやく。 立海大付属のテニス部は毎年全国まで勝ち進む強豪校だ。故に全国の中でもその知名度は高い。その為に、数ある部活動の中でもその人気は圧倒的。それは男子生徒の憧れや尊敬的な意味もあるが、それ以上に女子生徒からの支持が強い。部員達とお近づきになりたいとそんな不純な動機でマネージャーに立候補する生徒が後を絶たない為に、混乱が生じ、それもマネージャーが中々決まらない原因ともなっていた。 「困ったものだね」 幸村が苦笑する。最悪はマネージャーなしの方向で考えた方がいいだろう。不純な動機で入部してもらって、業務をこなしてもらえないのは困る。そうなるから、単純なる募集で立候補して来た生徒達は呆気なく切り捨てて、部員による推薦方式にしたのだ。レギュラーメンバーは信用できる。そんな彼らが推薦してきた生徒ならば問題はないと思って。 「この話は以上だ。候補が見つかったらいつでもいいから俺に言ってくれ」 気付けば部活動開始の時間が迫っていた。 2011/02/20 |