「よっす、!昨日はありがとな!」

予鈴ぎりぎりに滑り込むように教室に入って来た切原くんが席に着くなりくるりと私の方へ向く。とん、と無造作に置かれたエナメルバッグはその見た目ほど中に物は入っていないらしい。ちらりと一瞥しながらそんなことを思う。それにしても、隣の席になってからまともに挨拶をされたのは今日が初めて。あまり関わらないようにしていたから、彼の中での私の印象はきっとあまり良くはなかったのだろう。昨日のことでそれが払拭されたと言うのなら切原くんは思っている以上に単純かもしれない。

「切原くん・・・おはよう。部活は大丈夫だった?」
「ああ。まぁ真田副部長には怒鳴られたけど思ってたよりも軽かったし」
「そう、良かったね」

彼の言う真田副部長とは誰なのかは知らないけれどその様子からしてかなり厳しい人のよう。
とりあえずはあの場で起こしてあげた私の判断は間違っていなかったのだと思えて安心した。
予鈴のチャイムが鳴る。
けれど気にすることもなく切原くんは体勢を変えない。
うちのクラスの担任が時間きっちりにならないと現れないことをしっかりと把握している辺りは狡賢い。
悪知恵だけは働くタイプだ、きっと。

「なんだ、ふつうに笑えんじゃん」
「は?」

今、私は笑っていたのかしら。
にこにこと笑う切原くんを見ているとそうなのだろうけどあまりにも意識していなかった。

「なんかって無愛想なイメージっつーか、ほらあんま笑ってないだろ」
「失礼ね。ロボットじゃないんだから私だって笑うわよ」

感情の起伏を表に出すことは少ないかもしれないけれど、終始無表情な訳ではない。取り繕っているだけでそんな人間は一人だって居はしないと思う。クラスに馴染みきれていない私は浮いた存在だったのだろう。だからこそ、その無表情さが切原くんには目に付いたのかもしれない。隣の席だと自分が思っている以上に視界に入るものだから。

「そーだよな、悪い。けどさお前いっつも一人だから・・・騒がしいのとか苦手かと思って」
「別に嫌いじゃないよ、騒がしいの」

いつだってうるさいくらいに騒がしい人たちの中にいた事だってあったし。
大人しいキャラになりすましてはいるけれど、どちらかと言えば私は騒いだりするのは好きだった。いや、好きになった、の間違いか。ドタバタの委員会の中に六年間も居続ければ騒がしさにも慣れるし、それが楽しいと思えるようになる。しまいには暴君と言われていた先輩に少し似てきたんじゃないかと心配されるほどだったのだからその影響力はよほど強かったのだろう。
思い出にくすくすと笑っていれば置いてけぼりをくらったような顔をした切原くんが映った。

「ああ、ごめんね。だから、私に気を遣う必要はないよ。気にせず友達と騒いでくれて構わないから」
「え・・・いや、」
「気にしてくれていたんでしょ?ありがとう」

気遣ってくれていたと言うよりは余りにも静かすぎる私の存在が逆に邪魔だったから、でしょうけど。
少しぎこちない返事と焦った顔は存外面白く、分かりやすい子だと思う。

「そうそうそれと、切原くん」
「な、何だよ」
「今日の英語、小テストやるみたいだけど予習しなくてもいいの?」
「げっ・・・マジで?」

切原くんが英語を苦手としていることは、彼の周りにいつも集まるクラスメイトの子達がよく口にしていたから覚えている。それも、相当酷いらしいということも。案の定切原くんは一気に顔を青くさせる。やっぱり面白い。ゆっくりとカーブを描く唇にこの現状を楽しんでいる自分がいた。

「絶対じゃないけど、出題されるだろうポイントを抑えたノートならあるけど・・・、見る?」
「見る見る見る!!つーか見せて下さい!」

私に向かってパンッと手を合わせて拝むように頭を下げる。
頬を緩めたままその様子を眺めつつ、机の中から英語用のノートを取り出し、切原くんの前へと突き出した。

「はい、どうぞ」
「けど、ほんとにいいのか?お前は見たりしなくても大丈夫なのかよ」
「うん。一応は覚えてるつもりだから」

別に満点を取りたいとも思ってはいないから授業前のチェックをする予定もなかったし。要は悪くなければそれで良い。私は別に優等生ではない。成績はいつも中間を漂っている。どちらかと言えば動くことの方が好きで、勉強は苦手な方。だからこそ、予習くらいはちゃんとするようになった。
それは、一体誰の影響か。
自ずと自身へ問いかけた答えに苦笑するしかない。

「助かったぜ!マジサンキューな!!!」

満面の笑みでお礼を言われたところでチャイムが鳴り、朝のホームルーム開始を知らせた。
ちらりと視線を廊下へと滑らせれば担任の先生が歩いてきていた。




「(まぁまぁかな)」

シャープペンを持つ手を止め、ふっと顔をあげて用紙を一通り確認する。一応全ての欄は埋めたけれど全部が合っているとは勿論思っていない。あてずっぽうの部分もあるし、うろ覚えな部分もある。自信があるわけではないけれど、そこまで悪い点にはならないだろうという手応え。これ以上は尽くしようがないと判断してシャープペンを置いた。
英語の小テストとは言ってもその内容は期末試験の内容と変わらない程の内容と問題量だった。故に苦戦している生徒は多く、静寂の中にカリカリとシャープペンを走らせる音は半分の時間を経過してもまだ止むことはない。進級し、新しい学期はまだ始まったばかり。そして英語の授業はこれが二回目。だからこのテストは一年生の復習を兼ねている。そして生徒達の実量を測っている。まだまともな授業をしていないからだけど、問題の内容は一年生で習ったものばかりだった。
授業終わりまではあと二十分程ある。早くも退屈になってしまって生徒を監視する先生の目を盗んでちらりと隣の席を窺った。授業開始前、必死にノートを覗きこんでいた切原くんはその姿が珍しかったのか仲の良いクラスメイト達にからかわれながらぶつぶつと呪文のように単語を繰り返し呟いていた。貸してあげた効果は果たしてあったのか。恐らくは付け焼刃に過ぎないけれど、それでも何も見ず諦めてしまうよりはずっとマシな結果にはなるはずだと思う。
私が盗み見た時、切原くんはちょうどがしがしと黒髪を掻いていたところだった。必死そうな顔をして用紙を向き合っている。英語が大の苦手だと言うのだからそれも仕方のないことかもしれない。微かに唸る声が聞こえてきてテスト中にも関わらずぷっと吹き出してしまいそうになる。どうやら苦手ながらも必死に頑張っているらしい。ノートを貸すなんて単なる気まぐれだったけれど、そうそう悪くはなかったかもしれないと思った。



「・・・・・・マジ、疲れた・・・」

授業が終わり、用紙が一番後ろの席の生徒によって回収されていく中で、そんな呟きが隣から聞こえた。ぐったり机に張り付いている切原くんの顔は生気が失われかけていて、よっぽど労力をつかったのだと言うのが読み取れる。それほどまで嫌いなのかと逆に驚きだった。今日はまだ二時間目。半分も授業を終えていないと言うのに大丈夫なのだろうか。運動部なだけに体力の心配はなさそうだけど、精神的に参ってそうな感じに見える。

「お疲れ、切原くん」
・・・やれることはやったって感じだぜ・・・」
「少しは参考になった?」
「おう、すんげー助かったぜ。あれ見てなきゃ全滅だった・・・」
「そこまでじゃないと思うけど」

ふっと笑って見せた顔はいつもの切原くんらしく、憔悴しきった表情は一時的なものだった様子。

「いつもあんなしっかり予習してんのか?」
「まさか。あの先生は実力を測る為に復習テストやるって知り合いの先輩から聞いていたから」

善法寺先輩の情報をもとに、三郎からテストに出そうなポイントをわざわざピックアップしてもらった甲斐があった。予習した全てではないけれど、ほとんどが問題として出題された。さすが、三郎様々ね。

「つーことは先輩たちも知ってたのに教えてくれなかったってことかよ!俺が英語苦手なの知ってんのに・・・」
「先輩ってテニス部の?」
「ああ」
「切原くん、先輩と仲良いのね」

そう言ったら机にへばり付いていた切原くんが突然起き上がり驚きに満ちた顔で私を見てくる。

「・・・なに?」
「あんた、テニス部のこと知らねぇの?」
「え、優秀な成績を収めていることくらいは知ってるけど、」

テニス部に興味を持ったことなどないから私が知っている情報はこれくらい。
あとは、目の前の切原くんがテニス部員だってことくらいか。

「そうじゃなくって、先輩のこととか」
「いや、知ってるわけないじゃない」
「マジかよ・・・ちなみには外部組じゃないよな?」
「中等部から立海にいたけど」

胡乱気に細められていく切原くんの眸。
別におかしなことは何一つ言ってないと思うけれど、と首を傾げてみれば落胆のような溜息が聞こえた。

「お前それかなり貴重な部類だぜ」
「そうなの?・・・・・・自意識過剰じゃなくて?」

失礼だろうとも、中等部からの持ち上がり組全員がテニス部の存在を認識しているとは、さすがに自意識過剰じゃないか。興味のないことにはとことん興味のない人間はいる。私がその一人であり、県内でも屈指の生徒数を誇るこの学校ならば私と同じ人など幾らでも存在するだろう。

「ちげぇよ! 少なくとも俺の周りにはみたいな奴いなかったし」

どことなく拗ねているような顔の切原くんを余所にテニス部ねぇ、と記憶を回顧する。たとえば、夏休み明けの始業式、部の表彰等が行われる中で男子テニス部の名は当然のように聞いた気がする。壇上へと上がる代表者に密かに生徒達がざわめいていた記憶と、校長先生がえらく褒め称えていたことだけは覚えている。

でも、それくらいだった。





2010/10/01