その昔、上級生の長屋に赴くと言うのはそれなりの覚悟と準備が必要だった。くのたまは学年が上がるにつれ生徒数も減るので上下の関係も忍たまと比べればわりとフランクであったが、それでも年齢の線引きはしっかりとされており、上級生にはそれに相応しい節度のある接し方が徹底されていた。そして忍たまであれば、その意識は更に強まる。忍たまの方が一年一年の差が重く圧し掛かるから。七松先輩や立花先輩に用があって、先輩の長屋へ赴く時、いつも以上に気を張っていた自分を思い出す。気配を悟られるようなヘマをして、くのたまの評判を落とすことがないように、自身の実力を見縊られるようないことがないようにと息をするのすら気を遣った時もあったなぁと懐かしさに笑みが零れた。
その当時と比べたら今のこの気楽さはなんと言ったらよいものか。いや、それなりに気は引き締めてはいるけれど昔ほどじゃない。三年生の教室ばかりが並ぶ廊下を歩きながら偶に感じる視線は綺麗に受け流す。そう言えば用があるあの先輩のクラスには確か善法寺先輩もいる。善法寺先輩、居ないといいなぁ。何かと気にかけてくれることは純粋に嬉しい。でも、だからこそ赴いた理由を知ればいい顔など決してしないだろう。むしろ盛大に反対されそう。何を言われたって私の気持ちは変わらないけれど。

「失礼します」

目的の教室に辿り着き、大きくもなければ小さくもない声で礼をする。扉近くに居た生徒が雑談を止め、訝しむように私を見上げてくる視線を無視して教室を見渡した。驚いている善法寺先輩と目が合い、気まずさ故にすぐに視線を逸らした。それから、目的であった先輩を見つけて教室へと足を踏み入れる。下級生の登場に気付き始め、雑音が消えていく中でその先輩も私に気付いた。柔らかな面差しが驚きに変化する。その先輩の前の席に以前出会った丸井先輩や桑原先輩以上に奇抜な髪の色をした男を見つけた。彼は確か、テニス部のレギュラーメンバーの一人だったはず。名前は、仁王雅治。コート上の詐欺師と呼ばれる彼のテニススタイル・・・中学三年の公式試合で披露したその戦法はどこか三郎を彷彿とさせる。・・・三郎の方がよっぽど優秀で完璧だったけれどね。その仁王先輩から痛いほどの視線が突き刺さるが一切無視を決め込む。表向きの用事は驚きをすぐに微笑みへと変えたテニス部の部長・幸村先輩にあるのだから。彼の前で足を止める。一斉に私と幸村先輩へ注がれる視線も、先ほどから矢羽音で私へと話しかけてくる善法寺先輩の声も今は関係ないとばかりシャットアウトした。

「やぁ、さん。何か用かな」
「幸村先輩にお話がありまして」
「それは、この間の件かい?」
「はい。気が変わりました。マネージャーの件、引き受けたいと思います」

ざわり。一瞬にして音が増えた教室内の中で、私を驚かせたのは目の前の幸村先輩の表情。微笑むのだとばかり思っていたその顔はどちらかと言えば驚きに近い。数度瞬きを繰り返した後に「本当かい?」と問うそれは私に不信感を募らせた。・・・この人の策略ではない?それじゃあ一体・・・。その刹那、くつり、と笑う声を聞いた気がして一度は無視を決め込んだ仁王先輩を一瞥した。俯いている為にその表情はしっかりと窺えないが彼の纏う空気が酷く楽しげに歪んでいる。それは、事の真相を把握するには十分だった。・・・コート上でなくとも、詐欺師ってわけね。

「嘘を言う為だけに三年の教室に乗り込んだりはしませんよ」
「そうだね、それもそうだ。でも、一体どういう心境の変化かな」
「そうですね、どこぞの詐欺師が私の友人を嗾けてくれましたので」
「・・・仁王、いつの間に」
「プリッ・・・参謀から面白い情報を聞いたんでちょっとな」

部長である幸村先輩にすら報せずの単独行動。そして柳先輩から仕入れたであろう情報に対する分析力。私が雷花に対して甘いことを逆手にとったその動きは称賛に値するほど。仁王先輩は口元に笑みを湛え、目を細めて興味深そうに私を見つめる。

「よく気付いたのう」
「カマかけてみたんですよ、確証はなかったので」
「クク、なるほどな。面白い」

ああ、やだ。性格までどこか似てないこの先輩。
ニヒルなその笑みを見ていると三郎が浮かんでくるわ。
でも、三郎の方が全然マシだけど。

「つまり君は、友人の為にマネージャーをやるというわけかい?」
「マネージャーが二人いて、邪魔になることはないでしょう?テニス部は部員も多いですし」

過去テニス部には最大でマネージャーが3人も居た時期があったと聞く。だったら必要ないってことないでしょう。仕事は探せばいくらでも見つかるものだし。レギュラーから平部員まで全てにサポートが行き届くようにと思えば一人では少し厳しいものがある。文句はないはずだわ。それでも、少し険しい表情の幸村先輩。その理由は何となく察することは出来る。

「ご心配には及びませんよ。やると言ったからには真剣にサポートに努めますから」

勝手に人をテニス部に誘っておきながら、部活に対しての姿勢が不誠実だと認めることが出来ないだなんて、とてつもなく面倒な人。疑うくらいなら誘わなければいいのに。信頼出来そうなそんな子を初めから探せば良かったのよ。・・・今さら遅いし何も変わらないから言わないけど。
それに、今告げた言葉に嘘はない。理由がどうであれ入部するからにはちゃんと仕事はするわ。多少なりとも運動にはなりそうだし、悪い事ばかりというわけではない。そして、幸村先輩にとっても悪い条件ではないはず。

「良いだろう。こちらとしても二人も入部してくれると有難い。喜んで歓迎するよ」
「ありがとうございます」
「早速今日の放課後から来てもらえるかい?」
「はい、大丈夫です」

言われなくても今日から参加するつもりだった。だって、雷花が今日から部活動に顔を出すと言っていたから。あの子を一人で行かせるなんて、そんなことさせるわけにはいかない。その為の私だもの。入部届けについては後日で構わないと言うので、その言葉に甘えさせてもらうことにする。手続きをとっていたらとてもじゃないが今日からの参加には間に合わなくなる。マンモス校故か、入部するにも退部するにもそれなりに時間がかかってしまうのはネックな点である。

「それでは、失礼しま・・・・・・・・・善法寺、先輩・・・」
、ちょーっとおいで?」

ああ、悉く矢羽音での呼びかけを無視してきた所為か、善法寺先輩のお顔は笑っているのに目が全く笑っていない。仁王立ちで私の前に立ちふさがる姿は女の子としてはあまり褒められたものじゃないけれど、そんなこと今言ったところできっと綺麗に無視されることだろう。・・・完全に忘れていたわ、先輩方の中でも怒らせてはいけない人の一人に善法寺先輩が挙げられることに。その対象になったことがない私は真正面からそれを迎えうってまざまざと感じている。これはもう大人しく従っておいた方がよさそうだった。

「仁王・・・私は忠告したはずだったけど?」
「さぁてのう。善法寺の忠告は守っとるはずじゃが?」

冷たい眼差しが仁王先輩を突き刺していた。確実に怒っていらっしゃる善法寺先輩の告げた「忠告」という言葉が引っ掛かったが割り込んで聞けるような状況ではない。数秒の後に視線を外したのは善法寺先輩。くるりと身を翻し教室の扉へと向かっていく。無言の背中がついてこいと物語っていて私は先輩を追うように教室を出た。





2011/09/17