昔から図書館と言う場所がすごく好きだった。ずらりと並んだ棚に収められる本を見ると胸が躍り出すような高揚感と荒んでいた気持ちもすっと鎮まるようなそんな安心感を感じる。だからか不破は暇さえあればその場所へ赴いていた。当然ながら本を読むことも好きであり、幼少時から様々な本を読破してきている。本を読むという行為自体が好きなのかもしれない、と不破は思う。あらすじに惹かれたり、タイトルに惹かれたり、好きな作者だから、と本を選ぶ理由は様々だが読み終わった満足感よりも没頭して活字を追う、周りを気にすることがないそんな時間が好きだった。 そんな不破が新学期始めの委員会決めで図書委員会を選んだのは必然だったのかもしれない。極度の優柔不断で悩みだしたら中々決められない不破だが、委員会だけは何の迷いもなく図書委員会に立候補した。不破自身もよくは分からないがそこが自分の居場所のような、そんな気がしている。 放課後、図書室のカウンターに立つ不破の機嫌はすこぶるよかった。ほわほわとした柔らかい印象を受けやすい彼女のその笑みがいつにもまして嬉しそうで、その頬は誰が見ても分かる程には緩んでいる。放課後の利用者は限られているので不破は予め持ってきていた本を鞄から取り出して栞の挟んであるページを開く。図書室で借りた本ではなく書店で自ら購入したその本はまだ読み始めたばかりで物語の内容も掴みきれていないところだ。しかし、主人公視点で進んでいく物語は読み始めたらスッとその世界観に引き込まれていくようで読みやすさは抜群に良い。早く続きが読みたいと思ってわざわざ家から持ってきて良かった。静まりかえった図書室で続きを眼で追う。今日は特にやらなければならない仕事もなく、貸し出しと返却の手続きをするだけなのでいつもよりも集中して読めるだろう。 「読書中に申し訳ございませんが、貸し出しをお願い致しますか?」 3ページ程進んだ頃だっただろうか、遠慮がちにかけられた声に不破はハッとなる。あまりにも物語に夢中になりすぎて周りが見えなくなっていたらしい。申し訳ない気持ちいっぱいになりながら慌てて顔を上げ、そこに佇む人物に軽く目を見開いた。 「柳生先輩、ごめんなさい!気付かなくって」 「いえ、気になさらないでください。ですが、それほど集中して読める本でしたらご自宅で読まれた方がよろしいかと思いますよ」 「そうですね、そうします。つい続きが気になっちゃって」 苦笑する不破を見つめる柳生の表情は咎めるそれとは程遠いくらいに優しさを含んでいたのでホッとした。柳生は不破と同様に図書委員だ。一年の頃から図書委員を続けてきた不破は一週間に一度は必ず顔を見せる柳生のことは知っていたし、何度か会話もしたことがある。彼女にとっては数少ない交流のある先輩であった。それが今年になって同じ委員会になったことでその距離は自然と縮まった。同じ本好きと言う点で趣味が合うからか柳生と話すことは楽しい。後輩の不破に対しても丁寧且つとても綺麗な口調と態度を崩さないそれは堅苦しさよりも柳生のその真面目な性格を現わしているようでとても好感が持てた。 「貸し出しでしたよね。すぐに手続きします」 「お願いします」 読みかけだった本に栞を挟んで膝に置き、柳生から本を一旦受け取ったその一瞬、不破はふと動きを止めた。 何気なしに見上げた柳生の顔に、どことなく違和感を覚えた。どこかいつもと違うような、そんな気がした。 「どうかされました?」 「あ、いえ。すぐ、手続きしますね」 不思議がる柳生に笑みを取り繕いながら気の所為に違いないと慌てて作業に戻った。手続きと言っても貸し出しの記録をパソコンに入力するだけなのでそれほど時間はかからない。放課後、柳生は部活に向かうことを知っているので手続きは素早く済ませてしまおうとマウスを手にする力に少しだけ力が込められた。 「そんなに急がなくてもよろしいですよ。図書室に寄ることは伝えてありますので」 「でも、早く部活に行きたい気持ちはあるんじゃないですか?」 「それはそうですが・・・おや、」 「・・・どうかしましたか?」 「いえ、随分と機嫌が良さそうだと思いまして」 あっさりと見抜かれたことに不破の頬が薄らと朱に染まる。機嫌の良い理由など柳生は知りもしないのだが、その原因たる理由を思い出して自分は少し単純すぎやしないかと恥じるように目線は少し落ちた。 「何かいいことでもあったのですか?」 「ええっと、その・・・」 どうしよう、言ってもいいのかな?すごくくだらないことだしわざわざ言うほどのことなのかなぁ。でも、こうやって聞いてくれてるんだし、それに答えないのも失礼かもしれないし、それにこんなことを話してる間に部活に行くのが遅くなっちゃったら申し訳ないし、う〜ん・・・。 こうなったら中々決断出来ないのはいつものことだった。極度の優柔不断。へたしたら一時間でも悩み続ける不破は既に自分の世界に入ってしまい周りは見えなくなっている。音にもならない唸り声が聞こえてきそうなほど難しい顔をする不破の思考を遮ったのは柳生の声だった。 「・・・よろしければお話してくださいませんか?」 呆れることもしない柔らかな声。柳生と親しく話すようになってまだ二週間と満たないが、その期間の間に柳生は不破が極度の迷い癖を持つことを知り、こうやって目の前で悩みだした時はいつも答えを出すきっかけをくれる。鉢屋やとは少しだけ違う。二人は迷いだしたら決められない不破に代わっていつもしっかりとした明確な答えをくれる。不破に代わって決めてくれる。でも、柳生は答えをくれるのではなくそのきっかけをくれるのだった。最終的な答えは不破に任せようとする。それがどこか新鮮で、何となく嬉しかったことを覚えている。 「・・・今日の体育、シャトルランの測定だったんですけど、クラスの女子生徒の中では一番の成績だったんです」 「それは、素晴らしいですね。おめでとうございます」 「ありがとうございます。私、身体動かすの好きなんですけど、これまで全力で取り組んだことなくて・・・だから、余計に、かな、嬉しかったんです」 「それは、何か理由があるのですか?」 些か眉尻を下げて不思議そうに問いかけるので、いらぬ心配と誤解をしているのだと気付いて不破は慌てて首を横に振った。 「いえ、ちょっとした諸事情で・・・でも、たいした問題じゃないんです」 「そうですか・・・」 鉢屋に止められているなどと、そんなこと言えるわけがない。それもその理由も何も分からずに従っているなどと聞けば、生真面目な柳生のことだから納得しないだろう。不破も何故自分がここまで素直に鉢屋の言葉に従っているのか時々不思議になる。 鉢屋とは幼いころからの付き合いだ。親同士が双子、それもとても仲の良い姉妹だった為にずっと一緒に育ってきた。不破が迷っている時、いつも決めてくれるのは鉢屋だった。言葉に出さずとも不破の悩みや言いたい事に気付き、欲しい言葉をくれる。鉢屋の優先順位の一番はいつだって不破だ。それは不破自身も自覚してしまうほど鉢屋は不破以外の事に関して無関心だったように思う。依存。この関係を言葉で現わすのならこの一言に限る。でも、これが幼い頃からの日常であり、当たり前だと享受していた自分は相当の世間知らずだったのだろう。自覚したのは高校一年の春。遅すぎた自覚。一人の女子生徒に出会ったことによって変わる。 それが、。 入学式のその日、鉢屋を前にして涙を流したの姿を不破は目撃していた。いや、それは新入生であった多くの生徒が目撃しており、不破はその中の一人にすぎない。クラス表を確認しに行ったきり中々戻ってこない鉢屋を心配して追いかけてみれば鉢屋は一人の女子生徒を――をじっと見つめていた。その顔がこれまで見たことがないくらいに驚き、そして期待と歓びに満ちていて、咄嗟に近寄って声をかける事が出来ず、溢れる生徒の中に紛れて見つめるしか出来なかった。静かに涙を流すの腕を掴み、多くの視線から逃れるように姿を消した二人に置いていかれたような気持ちになったことは今でも忘れていない。鉢屋にとっての一番が不破であったように、不破にとっての一番が鉢屋であった何よりの証。でも、違ったのだと漠然と感じた。も彼の中では大切な存在であるのだと教えられた気がした。 同じクラスになった鉢屋との仲は一目瞭然だった。他人には一線を引いて接する鉢屋がのことはあっさりと内側に引き入れ素を曝け出す。鉢屋とがいつどのようにして出会ったのかは今になっても疑問として残っているが、鉢屋が不破以外にも関心を向けたことによって不破はようやく自分の世界がどれだけ狭く、鉢屋に頼りきっていたのかに気付いた。 それから、不破の生活は一変した。親しい友人を作り、彼女たちとの約束事を優先させる。ようやく普通の女子高校生らしい生活を送るようになったと言っても言い過ぎではないと思う。今も鉢屋は不破のことを気にかけてくれるがそれも昔に比べると大分軟化した。口煩いのは相変わらずだけど、細かい事にまでは首を突っ込まなくなった。雷花には雷花の生活があるんだから、あんまり口出ししちゃ嫌われるよ、と忠告したのがだったそうだ。驚いたと同時に、不破の気持ちも鉢屋の気持ちも組んだその言葉に不思議と懐かしさを覚えた。 そのの助言があって不破の生活の中で鉢屋が占める時間は格段に減っていった。でも、一つだけ鉢屋にきつく言いつけられてきたことがある。それが、不破の身体能力について。幼少時から不破の運動神経は抜群に良かった。駆けっこをさせたら一等賞は当たり前、マラソンでも周りの子に差をつけて一位をとったし、体育の授業はどんな内容でも楽々とこなして見せる。不思議な程に軽い体は持って生まれた才能のようなものだと思い、特に気にしたことはなかった。けれど、中学にあがる年に鉢屋から「これから先は目立つ行動は控えろ」と言われた。体育の授業などでも決して本気を出すなと何度も釘を刺された。訳を聞いても何も話してくれない鉢屋に解せない部分は多かったけれど、鉢屋が不破にとってのマイナスになりうることを言うわけもないと分かっていたから今までずっと大人しく従ってきたのだった。 それを今日、初めて破ってしまった。でも、不思議と後悔はない。鉢屋は文句を言うだろうけど、だったらどうして隠さなきゃいけないのかをはっきりとさせればいい。もう、隠し事は沢山だった。 「不破さん」 「・・・あ、はい!」 「貴女は確か、帰宅部でしたよね?」 「そうですけど」 ついつい考え込んでいた不破は柳生の声に意識を引き戻される。 三郎は何かを隠している。それはもうずっとずーっと小さい頃から。不破には言えない、不破だからこそ言えない何か。じゃあその何かってなに?繋がりそうで繋がらないパズルのピースが不破の頭の中で散らばっている。それを知りたい。知ってしまいたい。最近はそんなことばかりを考えている自分がいた。 「無理を承知で頼みますが、貴女の都合さえよければ我がテニス部のマネージャーになって頂けませんでしょうか?」 「テニス部?」 「ええ、そうです。我々は今、マネージャーになって下さる方を探しているのですよ」 テニス部のマネージャー。不破の通う立海大のテニス部は全国区であり、練習も厳しいことは聞き及んでいる。当然そのマネージャーを務めるのならばそれ相応の体力が必要となってくるだろう。だから柳生は自分を誘ってくれている。 鉢屋があれほどうるさく言い聞かせてきた約束。それは三郎の隠し事と無関係だとはどうしても思えない。だったらそこに真実を知る糸口があるのではないだろうか。・・・やってみる価値はあるかもしれない。 「すぐに返事を出せとは・・・いえ、出せなどとは言いません、ゆっくり考えて――」 「・・・いいですよ」 「は?」 不思議と迷いはなかった。 あまりにもきっぱりとした返答に暫し呆然とする柳生を見上げて不破はにっこり微笑む。 ほんの一瞬感じた違和感には、気付けずに。 「マネージャーの件、引き受けます」 2011/09/17 |