「随分と遅かったの、幸村」

あらゆる喧騒を掻き分けてすっと耳に吸い込まれてきた言葉に善法寺の意識は瞬く間にある一定の場所へと集中した。耳慣れない独特の鈍り声を使う生徒はこの教室・・・いや、この学校で一人しか存在しない。それを拾いあげることは善法寺にとって至極簡単なこと。そしてその生徒は、善法寺の中で現在、要注意人物として挙げられる一人である。その彼が話しかけた幸村もまた同じく。

「ああ、ただいま。・・・やはり赤也の手に負えるレベルじゃないね、彼女は」
「ほぉ」

幸村の言う”彼女”とはおそらくのことなのだろう。あの食堂での一件以来、善法寺は言葉の通りテニス部の行動を”気に掛けていだ“から間違いない。善法寺のクラスにはテニス部の部長である幸村がいる。何か進展があればその報告が彼に逐一入ってくるので善法寺は他の事を気にするよりも彼を見張っていた方がずっと早いと思っていれば案の定だ。

「思っていた以上に手強いよ。こちらの意図は全て見抜かれてしまった」
「お前さんがそこまで言うとは、面白そうじゃの」
「うん、面白い。会ってみると分かるよ。丸井も気に入っていたみたいだったけど、その理由がよく分かった」
「ああ、丸井とジャッカルは会いに行ったんじゃったか」

筒抜けである会話に善法寺はそっと額を抑えた。また見事に厄介事に巻き込まれたものだ。一つ下の可愛い後輩を思い浮かべてそっと苦笑する。あの食堂での杞憂が正に現実と化してしまった。こんなことならもう少し気にかけてやるべきだったかもしれない。くのたま達の中では圧倒的に身体能力の高さが目立っていただけど、その頭の回転の速さも意外と悪くはなかった。ずば抜けた直感も持つにもう少し早く報せてやっていれば自分で情報を集め、この事態から免れることも出来ただろう。しかし、それも此処まで来るとさすがにもう難しい。同級生である切原に毎日のように勧誘され、どことなく癖のありそうな丸井に気に入られ――丸井とは昨年同じクラスだったのでそれとなく性格は把握している――一番厄介でもある幸村にまで目をつけられてしまった。そしてその情報が仁王にまで伝わった。更に情報通である柳にはある程度のデータをとられてしまっている。の知らぬところで外堀は綺麗に埋められてしまっている。

「で、諦めるんか?幸村」
「まさか。ここまで来たら是が非でも入ってもらわないと」
「くく、怖いのう」

も一度は上手く交わしたようだが幸村は諦めるつもりなど毛頭ないらしい。そしてどこか不穏さも感じられる会話。これはもうしょうがないかなぁ。善法寺はすっと立ち上がった。食満ほど行き過ぎてはいないが善法寺だって後輩は可愛い。この学校に在籍する後輩の中で一番可愛がっているのことならば尚更。音もなく机の間を縫い歩き、二人が座っている席の前に立つ。突如机に作られた影に幸村と仁王が驚いた様子で自分を見上げるのと同時に善法寺はにっこりと笑みを貼りつけた。

「善法寺さん?どうかしたのかい?」
「幸村に・・・いや、テニス部に一つだけ言っておきたいことがあって」

善法寺は幸村や仁王とはほとんど関わりをもっていない。彼らとの関係性はあくまでも単なるクラスメイト。テニス部の知名度故に善法寺は二人のことを知っていたが彼らは善法寺のことなど詳しく知りもしないだろう。せいぜい『ちょっと不運なクラスメイト』程度に違いない。ちっとも嬉しくないが善法寺の不運さは既にクラスメイト達には浸透しきっていた。クラスメイトどころかもしかすると学年内ではちょっとした有名になっているだろう。でも、逆に言えばそれ以外に印象に残るようなことをやらかした覚えはなかった。その印象がこの対面によってがらりと変わってしまうことは承知の上だ。の為だったらそれくらい何てことない。

「君たちが何をしようと勝手だけど、を傷つけるようなことをしたら許さないから」

言葉は時に鋭い刃にもなりうる。にっこりと笑顔で二人へ告げるそれは厳重なる忠告。は賢い子だし、彼女の傍には鉢屋もいるから万が一にもあり得ないとは思うけれど、念の為。癖のあるあのテニス部の中でも腹の底を決して他人には読ませぬタイプだと思われる二人だからこそこの忠告は必要だった。目は全く笑っていないことを自覚している善法寺はその状態のまま冷静に二人の様子を観察していた。

「これ以上ちょっかい出さないでくれないかな?」
「・・・・・・善法寺さんは、彼女と知り合いなのかい?」
「それを知ったところで君たちには関係ないんじゃない?それに、それを調べる方法を君たちは持っているでしょ」

ハッとする二人に善法寺の笑みは深まる。知りたいんだったら柳蓮二を使えばいいだろう。こちらに調べ上げられて困ることなど何一つない。いくら柳でも善法寺との関係を完璧に調べ上げることなど無理に決まっているのだから。どれだけ探ったところで何処にでもいる先輩後輩という関係性しか浮き上がってこない。だってこの学校で漸く再会を果たしたのだから。繋がりはこの記憶一つのみ。知られるわけがなかった。



あの時代、善法寺はと特別親しかったと聞かれたら別にそうでもない。忍たまとくのたまという隔たり。その枠を飛び越えることの出来る委員会もまた違っていた。おまけに彼女は一つ下の学年。だからくのたまとの合同実習でも一緒になることは少ない。彼女との関わりは委員会を通してばかり。善法寺は保健委員会、は体育委員会だった。体育委員会の活動内容と言うのはいつも無茶苦茶だった。これはどの年代にとっても、だ。その中でも善法寺が保険委員長を務めていた年は特に酷かったように思う。その年の体育委員長は同級生でもあった七松小平太。忍術学園一の体力と持久力、そして腕力を兼ね備えていた七松の暴君振りには同級生一同振り回されていたが、それは体育委員会に所属していた生徒達も同様だった。七松の体力を基準にした気まぐれの委員会活動をやり遂げることは本人にとって至極簡単なことだったが、後輩達はそうはいかない。特に下級生達は。頭のてっぺんからつま先までボロボロになった後輩を引き連れてはよく保健室を訪れていた。その当時、七松に次ぐ上級生だったは委員会活動にも慣れていることもあってか委員の子達の中では一番怪我も少なく、故に彼女はいつも後輩達の治療を優先させた。保健室に来る度に申し訳なさそうに謝る彼女は七松が起こしたことへの皺寄せを一人で請け負っていた印象が強い。現に七松が委員会活動の中で備品や学園の壁に穴を開けてしまった等々の問題を起こした時、用具委員長であった食満へと詫びに訪れたのは当事者の七松ではなくだった。委員会中の出来ごとでしたから、と謝る彼女は細かいことは気にしない七松の性格をよく理解していたのだろう。全く悪びれない七松の代わりに彼に次ぐ上級生であったが上手くフォローしていた。そういった所から善法寺や食満の中では苦労人だなんて印象があったのかもしれない。けれど当の本人はそれをさほど苦労とは思っていなかったらしい。いつだったか治療中に聞いてみたら「それでも私は体育委員会が好きですから、全然苦なんかじゃないですよ」と笑っていた。

そんなだから保健室くらいでしか接点がなかったけれど、彼女が慕われていたのは知っていた。七松や体育委員と兼任して作法にも顔を出していたを立花が気に入っていたことも頷ける。
同じ学校の後輩として再会してから善法寺はのことをずっと見てきた。明るくてしっかり者で礼儀正しい彼女は無意識で相手の心を掴む術を持っている。それはプラスの要素でもあり、時にマイナス要素にもなりうることを当の本人は気付いていないだろう。しっかりしているからと安心している反面で、だから時折とても心配にもなってしまう。

は・・・、大事な後輩だよ。それだけだ」

お節介かなと思いつつもこうやって行動に起こしてしまうのは善法寺の中でが可愛いと同時に大事な後輩である証拠だった。それに彼女に何かあると立花辺りがうるさそうだし。自分のお気に入りが他人に振り回されることを気に入らないだろう立花にこんなことが耳に入ってしまうとまた何を企みだすか分からない。ああ、それに千鶴にも色々と言われそうだ。諸々の事情で千鶴とはまだ再会を果たしてはいないが、周囲からの情報を聞いている辺りハトコとして育ってきた今は同い年である後輩だったを随分と可愛がっているみたいだから。再会出来た早々に彼女の報復と言うなの嫌がらせを受けることだけは勘弁したいところだ。でもまぁ、七松に記憶がないだけまだマシなのかもしれないけれど。




2011/05/05