思えばこの時代の私にとって、保健室は無縁な場所だった。幼いころから滅多に風邪を引くことのなかった健康体。保健室にお世話になるような怪我を負ったこともなく、友人の付き添いで数回訪れたことのあるくらい。用のない限りは決して赴くことのない場所。 あの頃は怪我を追うことにも多々見舞われたし、何より委員会を終えた後に後輩を引き連れてよく訪れていた。頭からつま先までボロボロの私達を見て諦めたような顔をする善法寺先輩は何度見たかわからない。そのあとこってりお説教をくらったことも。もちろん、その説教を受けたのは当時の委員長だった七松先輩だったのだけれど。そういう意味では善法寺先輩と保健室には随分とお世話になっていたように思う。 保健室の前まで立ち止まる。目の前の扉へと意識を集中すれば、中に一つの気配を感じる。誰か、いる。その誰かが善法寺先輩であったなら。そっと確かめて、先輩じゃなかったらバレる前に立ち去ればいい。間違っていた時のことを怖れて此処に来る途中から気配は消してきた。だから気付かれる心配はない。中に入ろうと扉へと腕を伸ばしかけたその途中、背後に感じた違和感にバッと振り返った。 「・・・あ、」 頭で考えるよりも先に身体が動く時は何かを感じ取った時だ。つまりは自分に対して危機が迫った時。脳の伝達を待っていたら己の命が危ぶまれるそんな状況下を回避する為に身体が自分の意志とは関係なく動く。これは、委員会活動の一環の中で七松先輩と幾度となく組手をしてきた賜物だった。 気配は感じなかったけれど、背中へと感じた圧迫感のようなものを微かにも感じ取った身体は動いていた。振り返った先にいた人物を見て警戒も忘れて間抜けな声が落ちた。 「さすがは小平太の秘蔵っ子だっただけあるな」 唐突にその場にあらわになった気配がとても緩やかなものへと変化する。 表情すら和らげたその人は私を見つめて可笑しそうに笑った。 「けま、せんぱい・・・」 伸びてきた腕が迷うことなく私の頭を優しく撫でた。それは、この人が後輩と接するときによく見かけた仕草と表情だった。くすぐったいような気持ちになる。同時に、どっと気が抜けた。 「お久しぶり、です。・・・覚えていらっしゃるんですね」 私よりも学年は一つ上。最上級生時には用具委員会の委員長も務めていたは組の食満留三郎先輩。武闘派で闘うことが大好きだと言われていた先輩はその名に相応しい鋭い三白眼をお持ちだ。しかし同時に、とても面倒見が良くて後輩思いであることでも有名だった。剣呑な双眸だって後輩を前にしたら途端に和らぐ。更に加えるのならばくのたまの間では人気は高かった先輩の一人である。女の子はギャップに弱いとよく聞くけれど、それはくのたまにだって言えることであったのがその様子からも窺える。 「ああ。まさかまた会えるとは思ってもいなかったけどな」 「はい、私も」 「今1年か。高校からこの学校に来たのか?」 「いえ、私は中等部からの持ち上がり組ですけど」 「そうか。なら、海原祭ですれ違ってたのかもしれないな」 去年の海原祭のことを言っているのだろう。立海は中学、高校、そして大学までもが合同となって毎年、文化祭を行う。その文化祭は「海原祭」と呼ばれていた。当然その規模は大きく、一般のお客も入るために混雑は必須。あの人混みの中で先輩を見つけることは不可能に近い。そもそも去年の海原祭に意欲的ではなかった私は当日の日も中等部内しか見回らなかったから先輩の言う、すれ違っていたという可能性は限りなく低い気がした。しかし、そんなこと先輩を前にして言えるわけもなく苦笑して誤魔化した。 「あの、先輩はこちらに用事が・・・?」 「ん?ああ、そうだった。保健室に、な」 「・・・保健室」 比較的単純である私は食満先輩の言葉を都合の良い方向へと巡らせていく。期待が、顔に出ていたのかふっと笑った食満先輩の手がもう一度私の頭を一撫でする。そのまま私の横をすり抜けた先輩は豪快にその扉を開けた。仮にも保健室の扉をそんなぞんざいにと思ったが「失礼します」と意外にも丁寧な言葉をかけながら部屋の中へと進んでいく。開いたままの扉の奥から鼻をやんわり刺激したのは消毒液の香り。清潔感溢れる白い室内は余りにも自分にはそぐわない気がしてまだ入ってもいないのにそわそわしてしまう。 「はぁーい・・・ってなんだ留かぁ」 棚の奥の薬品に手を伸ばしていた背中が振り返る。ちらりと見えたその顔は今朝あの校門の前で見かけた横顔と一致していた。ああ、やっぱり善法寺先輩。見間違いなんかじゃなかった。そんな安心感と嬉しさが込み上げてくる。 「なんだってお前な・・・それより伊作、お前に客だ」 「客?どこか気分の悪い生徒でも・・・?それより留、その呼び方は―――」 「こんにちは。お久しぶり、です」 未だに入口で立ちつくしていた私は食満先輩に腕を引かれて中へと入る。先輩の隣に立たされ、その場で小さくお辞儀をして善法寺先輩を見た。まあるく開かれていく双眸。すぐ隣で食満先輩の笑う気配がした。 「?」 「はい。です」 薬品棚の戸を閉めて私の目の前までやってきた善法寺先輩はまじまじと上から下まで観察するように覗きこむ。忙しなく動く眸が何だか可愛らしくって思わず笑ってしまいそうになるのを堪えていたら、唐突に抱きしめられた。吃驚して慌てて蹈鞴を踏む。以前よりもずっと細身であることはその容姿からも想像できるが、それでも人一人分を支える用意などしていなかったから、危うく一緒に床へと倒れ込むところだった。 「・・・先輩?」 「ほんとだ、だ。久しぶりだねぇ」 「・・・伊作、嬉しいのは分かるが抱きつくのはやりすぎだ」 「いいじゃない別に。今の私は女な訳だし何も問題ないだろう」 呆れたと言わんばかりの溜息が隣から聞こえる。ゆっくりと私から離れた善法寺先輩はにこにこと笑みを絶やさない。女へと生まれ変わったことへの抵抗などはなさそうに見えた。むしろそれを楽しんでいる節が見られるのは私の気の所為、ではない気がする。 「今はなんてお名前で?」 「ん?ああ、今は善法寺伊織っていうの」 「いおり・・・可愛らしい名前ですね」 善法寺伊織。心の中で復唱してみる。うん、可愛い。 「ねぇ、もしかして今朝私にあつーい視線を送っていたのはかな?」 笑みを絶やすことなく問うてくる善法寺先輩に私は目を見開く。気付かれてたんだ。いや、記憶があったのならあれだけ分かりやすい視線を送って気付かないはずがない、か。自分の情けなさを大っぴらに披露してしまったみたいで恥ずかしい。あの学園を卒業した人間としてはとんだ失態だった。 「多分、私です。でも、見間違いかとも思って確かめるために此処に」 「私なら保健室にいると思って?」 「はい」 正確には三郎がそう言ったのだけど。相変わらずは良い勘をしてるね、とどこか自慢げに笑う先輩に先ほどの失態を引きずっている私は何も返せない。そんな私の心情すら読みとったのかくすり、と微笑みながらくるりと踵を翻す。少し短めのスカートから伸びる足は音もなく歩を進め戸棚の前に戻る。音を殺した歩き方はあの頃のまま。癖というのは直らないものなのかもしれない。三郎も無意識に行ってしまうのだと言っていたのを思い出した。 「の思ってる通り、私は相変わらず保健委員をやってるよ」 なりたくてなったわけでもないんだけどねぇ、なんて苦笑する。その先輩の足もとに棚から落ちただろう湿布らしきものが視界に入って思わず「あ」と声が漏れた。食満先輩も気付いたのだろう。ほぼ同時に隣から焦ったような声が先輩の名を呼んだ。直後、鈍い音と一緒に善法寺先輩の悲鳴が響き渡った。 「先輩・・・、相変わらず不運なんですね」 今朝の光景を見てまさかとは思っていたけれど。 その場に座り込んだ善法寺先輩の乾いた笑い声がそれを肯定していた。 2011/02/19 |